華光大会(4)~薄皮一枚が破れる~
3日間、法水に浸かる。日頃、いかに不法・懈怠に生きているのかを痛感させられる。
先生のご法話以上に、お同行方の態度に触発される。初日のご法話にあったように、先生が同行を育てると同時に、同行がまた先生を育てていくのである。昔は、厳しいお同行がたくさんおられた。いまは、みんな物分かりの言い、優等生になっている。といって、昔を懐かしんでも仕方がないことだ。今は、今の仏法の喜び方、態度というもがある。でも、時代が移り変わっても、お同行の力は大きいと思う。
ところで、たまにご法の厳しさを勘違いかれている方ある。人の嫌がることをかまわず、上から強く迫ることが厳しさだと勘違いされたり、受容的に聞く態度は、甘くて生ぬるいと思っておられる方がおられるようだが、実はそうではないと思う。
ぼくは、ご法の厳しさとは、どれだけ自己を正直に開いていくことができるかが、肝要だと思う。今、ここの、自分でしかないことは、信・未信に関わらない。同時に、そこでしか両者は出会うことはできない。そうすると、相手に迫らなくても、まず自己がどれだけ開いて、その場におれるのか。そんな同行が、たったひとりおられるだけで、分級座談会の雰囲気はまったく変わる。今回でいえば、2日目の朝や、3日目の座談会がそうだった。
分からないことを分からないと率直に問い、うれいしことはうれしいと分かち合って喜ぶ。不審があれば、頭を垂れてお聞かせに預かればいいのである。その時に構えることも、飾ることもない。全力でぶつかっていければいい。そんな方に触発されるように、座談会は随分、熱くなった。
ご満座の道場は、その方の促しと、それに応えて、重い腰をあげられた一歩出た方があった。しかしまだまだ自力で一杯である。ところがである。その菩薩ようう態度や姿勢に心を動かされる方がいるのが、ご法の不思議である。輪の中から突然、号泣念仏が始まる。誰かが勧めたわけではない。ご法のやりとりを中で、まったく自然に、自らのご信心の薄皮一枚の不審を破っていかれたのである。そこには、ただただ「申し訳ありませんでした。不審がありました」と頭を畳みに擦りつける懺悔と、その口ついて溢れ出る「南無阿弥陀仏」しかない。後は、ただ涙と鼻水である。
仏法には私が微塵も握ったり、囲ったりするものはないのである。底抜けに喜べる仏法なのだが、わが胸に、一抹の不安や誤魔化しや飾りはないか。善しになるこめに、念仏をしてはいないか。そんな薄皮一枚の不審が他力のお働きによって破られていく瞬間を共にすることができた。
まったく尊い時間でありました。
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