『シアター・クノンペン』
生まれて初めてカンボジア映画を観た。『シアター・クノンペン』
1月にカンボジアを旅したが、年輩者よりも若者が目立っつ、若い国だった。しかし、そこには悲しい歴史があるからだ。
カンボジアは、第二次大戦後にフランスから独立を勝ち取るが、1975年に、中国共産党の影響が強いクメール・ルージュ(日本では、ポルポト派の方が通じやすい)が政権を奪取し、世界でも稀にみる暴力による暗黒の圧政が、4年近く続く。その間、知識人や文化人を中心に一般市民も含めて、人口の1/4以上の人々が殺害されたといわれている。その後、ベトナムの侵攻でボルボト派は敗走するが、タイや中国の影響を受けた、ボルボト派を含む諸勢力が離反集合しながら、泥沼の内戦が続いて、また多くの命が奪われていくのである。
映画は、最初、主役の女子大生の青春ドラマの様相で始まる。偶然入った廃墟寸前の映画館で、若き日の母親が出演した映画ポスターを見つける。平和な時代に未発表に終わった映画は、最後の巻が、内戦の混乱の中で、行方不明。ロマンティックな映画のラスト部分を撮影するため、映画館主で、映画監督と名乗る男と、彼女のボーイフレンドを巻き込んで、ラスト部分を新たに撮影するために奮闘するという展開。
ところが、そのプロセスで、病弱な母親と厳格な軍人の父親、さらには、映画監督を名乗る男の封印されていた複雑な過去を、初めて知ることになる。それは、個別の問題というより、内戦を生きた大人たちが、戦後生まれの子供や孫へは語るには、あまりにも残酷すぎる歴史であって、皆が口ごもっていたという背景があるのた。
だから、過去の物語は複雑に展開し、現在へと綿々と続いていく。映画関係者は、文化人としてひどい仕打ちを受けていくのだが、単純なクメール・ルージュ時代に悲しい抑圧の歴史とは語りきられないところに、心引かれた。極限状態の下で、個々の業のようなものが露わになるようだ。弾圧され側も、弾圧した側にも、それぞれの物語ある。抑圧の被害者にも、肉親を裏切らねばならないこともあった。そして、多数の犠牲者の上に、生き残った者たちが背負っていかねばならないものは、一層重い。弾圧者が後の時代でも、支配者側になることもあれば、憎しみを越えて、結びつくこともあるというのだ。
映画は、負の歴史を暴くだけでなく、深い傷を受けた大人たちのバトンを受け継ぐ若者たちが、どのように未来の社会を築こうとするのかを示していくのである。
カンボジア映画を興味本位でいたが、素材としても魅力的な佳作だった。
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