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噛み合わない

 長年聞法されている方が、意を決して、不審をお話くださる。決して、お若い方ではないし、ご法座も頻繁にお出でにはならない。次はないかもしれない。仏願の生起本末、特に大悲のお心について、お取り次ぎさせていただいた。

 しかし、合掌されながら聞いておられるそのお顔には、まだ納得されていない表情だ。お心がその胸に届いていないのが,よく分かる。
 「まだ先延ばししたいのです。今度の華光大会で、、」。有後心、有間心である。

 ところか、他所事のご本人の隣では、号泣されてお念仏されている方がある。

  法座後の懇親会は、居酒屋で。気楽に飲みながらも、ざっくばらんにお話を聴く。昔話になったり、懐かしい方のお名前もでる。しかしここでも、さきほどの号泣されていた方の涙こそが阿弥陀様の涙だと、これまた涙ながに勧めてくださる方がある。

 諸仏方に幾重にも囲まれながら、ご本人はキョトンとされながら、なんとかなろうとも願っておられる。これまた私の姿にほかならない。

 如来様を自分のこの小さな胸に収めようと聞くのではない。摂取不捨と、逃げるわたしを追いかけて、わたくしのままを摂め取って離さないお働きに出会うのである。

 

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