寺院報恩講
報恩講さまである。
原点に帰って、親鸞さまのご恩徳について。9月に京都の親鸞聖人の旧跡巡拝を旅をして、改めて感じたことがある。
親鸞さまの場合は、法然さまとの出会いがある。9歳で青蓮院で得度された時、もうそのお隣、直進距離なら1キロほどの吉水の草庵では、法然さまが専修念仏のみ教え説いておられた。しかし、その時は、ご縁がなかったのである。そして、20年に渡る比叡山でのご修行がある。比叡山では、堂僧として、常行三昧の行を励まれている。自力での念仏行道だ。しかし、どれだけの真摯な修行でも、真に後生の安心とはならなかった。それで、「後世を祈り」「生死出べき道」の明師を求めて、六角堂に百日間の参籠をされる。ここで、聖徳太子さまとの夢中でのお出会いがあり、いよいよ法然さまのもとに足を運ばれるである。もちろん、法然さまのことは知っておられたのであろう。しかし、一歩が踏み出せなかった。なぜなら、法然さまの教えは「専修念仏」である。専らに、称名念仏一行で、行は、菩提心ですら捨てものだ。「こちらも」「あちらも」とよいところどりをして、自分の中でまざまなものを重ねていくことは、仏道ではない。今日では、保険をかけて、そんな聞法をさながら、ここで聞いておられまる方もたまに見かけるが、親鸞さまは、比叡山での20年の修行を捨てる決断を迫られた。それは、これまでの古き自己との決別でもある。
そして、法然さまから、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」との仰せをいただく。が、ほんとうにそのお念仏ひとつの身となられるまでには、さらに、雨の日も、晴れの日も、そして大風の日も、百日間、法然さまのもとに通い続けられるのある。そしてとうとう「雑行を捨てて本願に帰」せられたのだ。よき師、法然さまの仰せに出遇い、弥陀さまと値われたのてある。
しかし、その出会いとは、わたしの方からみると、「遇(たまたま)行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」なのである。でも、如来さまから見れば、あの手この手のご方便の賜物である。すべて、他力のお働きでしかないのだ。
そんなことを冒頭で話つつ、恩徳讃や本願のお心を2日間に渡り聞いて頂いた。
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