10月の聖典講座~仏智うたがふつみふかし(2)~
(3)「信疑得失」【四四】前半
他方国の菩薩方も、阿弥陀仏を信じれば化生の者となる。
化生の者は智慧が勝れているが、胎生の者は智慧が劣り、五百年間も、
一、阿弥陀様を見たてまつらず。
二、経法を聞かない。
三、菩薩や声聞衆(法の仲間)に会えない。
四、他の仏の供養もできない。
五、菩薩の法式(自利利他の修行)ができない。
六、功徳を積むことができない。
の不了仏智の失をあげておられる。これはすべて、過去世において智慧がなく、仏智を疑った罪にほかならないのである。
特に、一、二、三は、せっかく浄土に生まれながら「仏・法・僧」の三宝に会うことさえできないというのである。何のためにお浄土に生まれるのだろうか。「自分が地獄などの六道を離れられればそれでいい」というだけなら、仏道でもなんでもない。単なる自己中心の欲望にすぎないのである。しかも、五百年というのも単なる五百という数字だけではない。如来さまの側からみれば大悲のお心からおこったものだが、私の側からみた化土往生の意味を深く聞かせていただかなけば、ほんとにう恐ろしいことになるのである。
「信疑得失」【四五】後半
その姿を、転輪聖王の息子で、罪を犯した王子たちが、七宝の宮殿に幽閉され、金の鎖につながりながらも、なに不自由な暮らしているという譬えで示される。例え不自由がなくても、王子が七宝の獄から逃れたいと願うように、胎生の者も、三宝に会えない苦しみから逃れたいと願う。そこを離れるには、仏智を疑う罪を知り、深く自らの非を悔い、そこを離れたいと仏智をたのむ(他力に帰す)以外にはないのである。つまり、不了仏智の者は大利を失し、明信仏智の者は大利を得るのであるが、これはそのまま次の流通分へも展開していくのである。
親鸞さまは、この段を重視されていて、『誡疑讃』の多くはこの段をうったものであるが、なかでも、二十三首目は大切だ。「真実信心は難しいので、地獄に行くのなら化土でもいい」という人がおられる。実は、その言葉こそ仏智の不思議な働きを疑う罪にほかならない。そこを超えていくのはただひとつ。その心の罪を深く知らされて悔いるこころを第一として阿弥陀さまの不思議なお働きをたのむ以外にないのである。このご和讃を何度も何度も味わっていきたいものだ。
「仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」
(誡疑讃二三首)
そして、二十三首の結びには、本願の不思議な働きを疑う罪を知らせるためであると重ねてお示しくださっているのだ。
「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり。」(誡疑讃結び文)
(4)十方来生」【四六】
信疑得失を述べ終え、弥勒菩薩の問いに応じて、釈尊は、娑婆世界以下、十四仏国よりおひただしい数の菩薩が浄土往生することを説く一段へ移る。
まず、この娑婆世界より六十七億の「不退の菩薩」が往生するであろうと述べる。この菩薩方は、みな「次いで弥勒のごとき者なり」(次如弥勒)ともいわれる。(親鸞さまは、「次如弥勒」に大注目されて、盛んに引用されている)
次ぎに、娑婆のみならず他の十三仏国からも無数の菩薩方が往生すると述べられる。
さらに、以上の十四仏国らかばかりでなく、十方世界の無量の仏国からも同じように無数の往生者があるが数えることができない。それらの諸仏の国、またその往生人の数を説くには、昼夜一劫を経ても、説き尽くせないので、いまは略して説いただけとで結ばれている。
以上で、正宗分(本論)の説法が終わり、来月は、いよいよ流通分に入る。今年中に、『大経』もおわりそうである。
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