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9月の聖典講座-慈悲から智慧へ~

 「釈尊の勧誡」(お釈迦様のお勧めと誡めのお説教【三一~四六】)は、主聴衆が、阿難尊者から弥勒菩薩が変わり、場面が急転化した。大きく二分科されるところだが、前回で前半の「大悲摂化」(「三毒・五悪段」・「浄穢欣厭」)段を窺った。そして、今回から、後半にあたる「現土証誠」段に入る。古来より、「開顕智慧」(智慧)段と味わわれたり、「胎化得失」(胎化)段とも言われている。そして、上巻から続いた「正宗分」(いわば本論)のご説法は、ここで終わるのである。

 さて、前段の「大悲摂化」は、 釈尊が大悲のお心から、仏眼に映る痛ましい人間生活の現実を説かれた段であった。さらに大悲「慈悲」のお心で説法された釈尊が、続いて阿弥陀如来の「智慧」について説法に入られる。慈悲から、智慧への展開されるのだ。

 概観すれば、光明無量の阿弥陀如来とその浄土を目の当たりに拝まされ、その浄土の中に、化生と胎生の者があることを示し、阿弥陀如来の疑う罪を誡め、如来の智慧を信じる(他力の信)ことを勧められている。

 皆さんの声を聞くと、私の痛ましい人生の実相が説かれる三毒五悪段は、私の姿と重なってくるので、(耳は痛いが)実感しやすい身近な段で、人気もある。

 ところが、後半の智慧段、胎化段になると、関心は薄くなるようだ。浄土の胎生の存在がわかりづらいこともあるが、慈悲によって明らかになる罪悪の方が、智慧によって照らされる疑惑よりも、実感しやすいからであろうか。

   しかしである。親鸞さまは、こらちをたいへん重視されている。この真仮を分際する、信疑の廃立こそが、浄土真宗の真骨頂といてもいいのだ。それは、『顕浄土真実教行証文類』の構造をみても明かである。また、『三帖和讃』の構造を窺ってもそうで、全体を総括する巻頭讃の二首が、勧信と誡疑で始まり、そして正像末和讃の終わり近くに、この段をまるまる素材とした二十三首もの誡疑讃が作られているのである。(つづく)

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