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2016年9月の22件の記事

力なし

  「力なし」-週末の輪読法座で印象に残った言葉だ。
 仏法に向き合ったとき、我が後生はと踏み出したとき、ほんとうに、この私は「力なし」なのである。

  でも、力があるようにうぬぼれる。もしくは、力なしではダメだと頑張る。いや、実際は頑張ってなどいなくて、どう頑張ればよいのかと考え続けているということであろう。

 ほんうとは、「力なし」がお目当てと、そのまま聞かせてもらえば、開けてくる世界があるのだが、無い力を発揮しようというのだから、妙なものである。

 普段、大人しい方が積極的に動かれた縁で、大阪のご自宅へのご示談に窺った。
 長年、聞法されている方だが、最近、法座はご無沙汰気味。それが、からだが思うようにいかななくたことから、後生への心を馳せると、死んではいけない自分と出会われたのである。切羽筒まった様子だったので、すぐに日程を合わせたが、台風があり、また体調不良がありとで延期となり、こちらから出向いていくことになった。

 僕自身も「力なし」の言葉をしみじみと聞かされたご縁だった。

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9月の日曜礼拝法座~源信さまとお母様~

  大分法座の予定が、都合で10月に延期になり、久しぶりに日曜礼拝に出席できた。

Img_5803   Kさんがご法話の担当。今年、千回忌をお迎えした源信僧都についてのご法話。先の親鸞聖人聖跡巡拝で、恵信堂を御参りした直後で、新鮮に聞かせて頂けた。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/7-9e1a.html

   しかも、これまで悟朗先生からお聞かせに預かれたところを、「われ是れの如く聞きたてまつる」とお話くださった。

  幼少の千菊丸時代の才智溢れるエピソードに、出家後、わずか15歳で、宮中での『称讃浄土経』(阿弥陀経の異訳)の御前講義を、村上天皇に称賛され、僧都位と、七重の衣を下賜された時の逸話(伝承)は、有名だ。

 天皇さまにお褒めいただいたのである。それだけ立派な僧に成長したことを嬉々として報告されたら、まったく手厳しい反応が返ってくる。その時のお母様のお歌が、

    「後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに、世渡る僧となるぞ悲しき」

つまり、世間の名利を捨て、専ら出離の一大事を解決せよ。そのために僧となったのではないかと、という厳しい母の叱責であった。しかも、お姉様からも、

    「出づる息 入るを待たぬ世の中を 君はのぞかに ながめつるかな」

Img_5902と求道姿勢を厳しく誡められるというのである。

 これを契機に、翻然として出離の一大事を求められて、念仏の一門に帰入されていく。そして、43、44歳で、横川において『往生要集』を書かれているのである。その間、一度も、母の元には戻ることはなかったが、42歳の秋に、どうしても母に合いたいと手紙を出されるのだが、仏道修行の妨げにあると断りを連絡がある。しかしながら、母親の病が深く、後生の知識となってほしいとの手紙が届き、いそぎ母のもとに駆けつけて、臨終説法をされたという。そのお導きで、母も信心歓喜のお念仏の身となられたというのである。

「我が行を砥(と)がしめたものは、母なり
 母をして終り善くせしむるのは、我なり」

 まさしく、母親こそが、子の仏道への増上縁となり、またその子が、母親の往生成仏の善知識となられるのである。

 源信僧都とお母様のお話は、ある意味、わが父とその母親との関係に通じるものがあって、感慨深くお聞かせに預かった。
 
 幼き日より、念仏の大事を教え、また絶対安静の父を献身的に介護し、その導きと介護のおかげで、お念仏を喜ぶ身となった父は、それまでありがた屋の喜び手であった母親を導いて、ついに後生の一大事の解決の真の知識となるのであるから、どこか重なるような気がした。

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9月の華光誌輪読法座

 聴く力を、さらに身につけてもらいたいと思っている。聴くというと、ただ黙っていることではない。聞いた話がどうであったかを確かめることも大切である。でも、自分の気持ちや思いばかり発言しても、聞いたことにならない。それは、輪読法座で読ませていただくことでも同じだ。もちろん、文章に触発されてでる思いもあるが、まずは、「何を感じたか」の前に、「何をお伝えくださったのか」をお聞きしていきたい。

 分かりきったことだけれども、実際、ここを理解し、さらに身について聞法されておられる方が、どれほどおられるのだろうか。いっそう、聴く力を身につけていきたい。

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教行寺永代経法座

 Img_5964お彼岸のお中日。

  約1年ぶりに教行寺にお邪魔する。細い急坂が入り組んで古い田舎の町並みが残っている。小さな集落には、すぐ近くに興正派の寺院と、裏手に神社が建っている。その中でも、立派なお堂をもった蓮Img_5975如上人のゆかりのお寺である。彼岸花もきれいに咲いている。
 1年ぶりにお顔をみられると楽しみにしてImg_5974いた先生は欠席。老夫婦も、バタバタと動きまわっておられて落ち着かない。こちらも、なんとなく調子があがらない法座となってしまった。

Img_5980 何度もご縁を頂いているが、どう聞いておられるのか、その反応が知りたい。もちろん、ご聴聞の様子でだいたい察することImg_5981ではきる。難しいすぎだり、教義的な話は、チンプンカンプンなのだろう。しかし、ほんとうのところはどうか。要望や批判でもいいので反応をいただきたいなだ。

Img_5967 昼座、芥川の「くもの糸」を読んだ。もともとは児童向け童話だ。座談が無理なら、質問を出して、それをもとに6名組で話し合っImg_5963てもらう形式を考えた。が、皆さんから反対の意見がでた。今回は、無理はしなかった。その代わり、感想や意見を自由に言ってもらったが、、。
 
Img_5969 坊守さまは、朝も昼も法話の最中に、庭や境内のお掃除をされている。ほんとうに頭が下る。その姿を見ていただくだけでもご門徒方へImg_5989の生きたご教化だ。でも、ご門徒方と共にご聴聞いただきたいとも願う。日頃、ご門徒と接しておられるご住職や坊守さまならば、皆様のご聴聞の様子もわかるだろう。月忌参で、話題にでるかもしれない。座談がない分、法話を聞き放しで終わらせない工夫があれば、すばらしい。不遜なながら、ここを起点に次ぎに繋げていただきたいと願って、お話を申し上げたが、、。

 
 

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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(9)~番外篇

 今回の京都の親鸞聖人御旧跡は、お誕生からご流罪までの35年間が中心で、帰洛後30年の晩年やご往生後のご旧跡は訪れなかった。3日間の計画の時には予定に入っていたが、写真程度だが、興味のある方は京都にお出ましのおりにはぜひ。

Img_2339_3ご往生の地(光円寺)

 『伝絵』によると、60歳を過ぎて、京都に戻られた聖人はそのお住まいを転々と移っておられる。そのうち、「五条西洞院」に一時お住まいになる。いまの、松原通西洞院である。現在の五条通りは第二Img_2338_2次大戦の建物疎開で道幅が拡充されて、鴨川にかかる五条大橋には「弁慶と牛若丸像」が建っている。が、しかし、もともとの五条通は、今の松原通あたりなので、この松原京極の商店街のロゴも、弁慶と牛若丸である。

 この商店街の一角に、ひっそりと光円寺は建っている。同じ『伝絵』の平太郎の熊野詣で有名な大部平太郎が、この地を訪ねている。お寺の伝承では、この地で、親鸞聖人が遷化されて、すぐに遺体は、聖人の弟、尋有(じんゆう)の坊舎である善法院跡に移されたと言い伝えられる。

Img_2804ご往生の地(善法院跡)

 ここは、比叡山から六角堂に行く時に、バスの中から拝ませていただいた。昔は、この碑が、柳池中学校の敷地内にあって御参りしずらかったが、学校統合で御池中学校になったのを機に、前面に碑が出されている。東本願寺ではここが往生の地だといっているが、今日ではその説が有力である。

 『伝絵』には「押小路南、万里小路東」とある。また関東の高弟であった高田の顕智が訪ねた記録では、「三条・富小路」の御坊とあるのとも、符合してくる。しかもこの地の町名は「虎石町」である。善法院の井戸跡から堀り立たれた虎が伏したような石が、町名の由来だというのである。

Img_3178_3ご往生の地(角坊)
 
 ところが、西本願寺では、右京区山ノ内こそがご往生の地といっている。昔は、角坊別院(いまは、日野誕生院と同じく本願寺飛び地Img_3180境内)が建っていて、中央仏教学院が隣接している。しかし、ここに角坊が建ってたのは、比較的新しくて、江戸末期、聖人の六百回忌の時のことである。

大谷本廟

Img_7119 西本願寺の親鸞聖人の御廟。清水寺に隣接する。今回の旅では、往復この横を通った。東本願寺では、大谷祖廟といって、祇園の八坂神社や吉水の草庵跡に近い。親鸞聖人の墓所、特にお骨をおまつりしているところは、京都以外にもあって、その中でも有名なのは越後の浄興寺。聖人Img_7114の頂骨が安置されているという。十派以外のご本山である。

 そして、その近くまで行きながらまだ訪れたことがないのが、荼毘の地と伝えられる今熊野の延仁寺である。今秋の紅葉のころ、ぜひお訪ねしたいと思っている。

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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(8)~ご参籠の地・六角堂

 Img_5942雨の中、坂道を少し歩かねばならなかったので、しんどくなられたり、転倒される方もあったが、どうにか、京都市内の六角堂に向う。親鸞さまが、比叡山を降りて六角堂に向う故事に倣って、ここが最後の御旧跡の地となる。時間が許せば、聖人の臨終の地といわれImg_5954る善法院跡の碑で結び話もあったが、連休中の京都市内は渋滞していおり、六角堂で最後となった。

Img_5957 六角堂は、烏丸御池を下った、京都市内の中心部にある。誰かが都会の中のビルの合間にあるんですね」と驚いておられたが、回りのビルも池坊で、ここのご住職もImg_5962_2池坊、つまりはすべて池坊グループというのか六角堂グループ。ここは、華道発祥の地でもある。聖徳太子さまは、なんでも初めての御方なのだ。

Img_5946 古来より、観音さまの霊場として、聖徳太子のゆかりのお寺として繁栄するが、境内には、へそ石があって、これが平安京造営Img_5953の基準になったとも言われている。京都には、金閣寺、銀閣寺、東寺など俗称が全国区になっているお寺が多い。ここも、また正式には頂法寺というのだが、それを知っている人は稀だろう。お堂の形が六角形なのでImg_5951、六角堂と称されている。

 もちろん、親鸞さまがここに籠もられたのImg_5952は、聖徳太子さまを「和国の教主」(日本のお釈迦様)を敬愛されていたからである。その九十五日目の暁に、聖徳太子のご示現によって、聖道自力の教えを捨てて、法然さまの専修念仏の道を歩まれることになるのだ。青蓮院のところで触れた、20年間の回り道の話である。

 ご本像は、観音菩薩であるが、右手に親鸞聖人、左手に聖徳太子をおまつりされていて、それぞれ扁額も掛かっている。また境内には、親鸞堂があるが、そこには、御籠りをしながら、夢ともうつつともその境界がなくなっている親鸞様の夢告像が安置されている。このあたりは、新しい建物ではある。 下の写真は、六角堂の正面と、夢告像。

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 雨の影響も最小限に、こうして、無事、2日間の行程を終えた。
 いつも京都に来ても、華光会館だけという方には、聖人のご旧跡地を回るのは初めてだという方も、多かった。比叡山だけは行ったことがあるという人でも、東塔(根本中堂)だけという方もあったので、皆さん、たいへん有意義に、2日間の旅を終えてくださったのではないだろうか。

 ところで、今回の京都の親鸞聖人御旧跡は、お誕生からご流罪までの35年間が中心で、帰洛後30年の晩年やご往生後のご旧跡は訪れなかった。ただ、このブログでもちょこちょこその点には触れてるので、番外篇として結んでおこう。

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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(7)~ご修行の地・比叡山(横川篇)

Img_5879 比叡山の三塔の中でも、訪れる人が少なく靜寂の中にある。しかも、今日は雨が降っている。この地は、慈覚大師円仁によって開かれImg_5922たが、私達には、源信僧都が15歳からこの地で修行され、『往生要集』や『横川法語』などを顕された、日本の浄土信仰発祥の懐かしい地である。

Img_5886 しかも、今年は、源信僧都の一千年大遠Img_5885_2忌に当たっている。正式には、恵信僧都源信と申される。横川の中心である横川中堂は、新しい建物だが朱塗も鮮やかだ。鐘楼を抜けImg_5889て、少し上り坂を登ったところに、恵心堂がある。同朋観光の熱意で、お堂をあけて、特別にご説明をいただく。これが、法話なのか、漫談なのか、よくわからない内容だったが、雨の中立ったままで、長い話を聞かされて、いささか皆Img_5899さんもお疲れになられたようだ。

  ご本尊は、源信さまお手製といわれる阿弥陀如来で、その阿弥陀様とつながる形で、五色の紐がつながっている。浄土教が大切にしてきたImg_5890臨終行儀にも関わる。もちろん、平生業成の浄土真宗では、そんなものは不要であることはいうまでもない。平生の時に、泥凡夫の私が称える「南無阿弥陀仏」で、すでにもう充分なのである。

Img_5907 しかし、源信さまを通し、法然聖人を経るからこそ、親鸞様のお出ましがかなうのであって、ここをくぐらなけれど、浄土真宗のみ教えは生まれず、同時に、浄土真宗では捨てものであることもわかるのである。
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  ≪恵心堂↑ と 阿弥陀如来像↓≫
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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(6)~ご修行の地・比叡山(西塔篇)

Img_5872 東塔をあとに、西塔に向う。徒歩なら東海自然歩道を歩いて、伝教大師霊廟である浄土院や、聖徳太子ゆかりの椿堂などの靜寂の中を巡って、30、40分くらいのハイキング コースでもある。今回はバスで、3分ほどであっと言う間に到着した。

Img_5811_2 まずは、にない堂。法華堂と常行堂の二つお堂が、渡り廊下でつながっている。これを暴れ者の弁慶が担ったというので「弁Img_5833慶のにない堂」とも言われている。もちろん、どれだけ弁慶が力持ちでも、伝説上の逸話である。しかし、そんな伝説が生まれるような雰囲気はある。法華堂では法華の、常行堂では念仏三昧の行が、つまり法Img_5812華と念仏が一体であるという比叡山の教えを顕すお堂なのである。

 恵信尼公のお手紙によると、親鸞聖人は比叡山で堂僧をされていた。この地にはImg_5857、「親鸞聖人御修行の地」という碑が建っている。常行堂で常行三昧がなされているが、九十日間、行道(歩きながら)しながら、口に念仏を称え、心に阿弥陀仏を念じつづける行である。初日の法界寺でも、その説明があり、たった1周だけだが、阿弥陀様の回りを行道した。天台宗の修行である四種三昧の一つImg_5850であるが、壮絶な行道である。 美しい苔の緑に、霧にかすむお堂が幻想的だ。

 西塔のメーンである、釈迦堂へ。名前のとおり、お釈迦如来様がおまつりされている。信長の焼き討ちの後、秀吉によって再建されImg_5875てという。

 西塔をあとに、横川に向うが、途中、峰道Img_5851_2レストランで昼食。ここは、眼下に琵琶湖が美しいところだが、濃霧で何も見えない。また、大きな伝教大師像も建っているだが、それすらまったく見えない。お昼を食べていると、本格的に雨が降りだしてきた。これまで、こんな天気だったのに、上出来に来ていたが、横川は雨の中になりそうだ。峰道を出発すると、すぐに「法然聖人が『観経疏』のご文で廻心されたという黒谷青龍寺への向う道が見える。もちろん、今回は、無理だ。以前、比叡山での聞法旅行でも、健脚組が訪れて、帰路に、土砂降りの雨にあったいわくつきのところだ。今度は、ぜひに。  
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     ≪霧に霞んだ西塔の常行堂≫

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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(5)~ご修行の地・比叡山(東塔篇)

  2日目、朝から強い雨が降っている。これから比叡山だ。山の天気が心配。
 バスは、滋賀県に向って、西大津パイパスから比叡山ドライブウェイに入る。当然、京都市内の北白川から山中越え(雲母坂)の、親鸞様たちが飽かれたルートだと思って尋ねると、いまは、観光バスの大半はこのルートそうだ。

Img_5776 比叡山は848Mと、決して高い山ではない。が、眼下に琵琶湖が開けて眺望は美しさは、抜群だ。このドライブウェイからも、琵琶湖がよく見える、、はずだった。今日は、何も見えない。眼下どころか、目の前の視界も悪い。隣に座る連れ合いが、バスのシートベルトに手を伸ばして留めた。ヘアピンカーブを走るバスの回りには、ガスがタレこめている。

Img_5793 濃霧の中、東塔に到着。ガスはかかっているが、幸い雨は止んでいる。これまで何度も比叡山を訪ねているので、雪も経験しているし、雨もある。しかし、こんな濃霧の中は初めてだ。

Img_5787_2 比叡山といったが、正式には、天台宗総本山、比叡山延暦寺である。最澄がこの山に登ったのが延暦四年(785年)の春で、延暦七年(788年)に、まず一乗止観堂を建立したという。いまの根本中堂の始まりである。

 東塔、西塔、横川の三塔と、それぞれが五谷、五谷、六谷の十六谷を有する、総称であるが、その中心に、国宝の根本中堂があるのだ。内部Img_5805の撮影は禁止されているが、ここで、久留米から来た穏やかな僧侶の説明を聞いた。今度の旅では、それぞれのお寺で、いろいろな僧侶の方のお話を窺ったが、皆さん、一致して、このお坊さんの評判がよかった。もちろん人の趣味はそれぞれで、大半の方が薄汚いと称された(失礼!)崇泰院の僧侶が、「かっこよかった」という感想述べた変わり者もあって、その方らしくて面白い。

Img_5804 本題である。上から内陣を覗き込む様式である。ご本尊は薬師如来像。その正面には、最澄から1200年以上、燈り続けているという「不滅の法灯」が輝いていた。靜寂の中にも、厳粛な雰囲気がある。

 ところで、この東塔の谷のひとつである「無動寺谷」の大乗院Img_5783は、親鸞聖人のゆかりとして、有名な「そば喰い」伝説が残っている。もちろん、今回は、訪れていないので、山内のパネル展示で、説明を受けた。以前、比叡山に宿泊した聞法旅行では、3日間で東塔、西塔、横川と回ったので、東塔も巡りつくした。法然堂や蓮如堂といって、浄土教にもゆかりのお堂もある地区だ(といっImg_5784ても、辺地にあるので、訪ねる人は少ない)。

 今回は、根本中堂と、比叡山でご修行された日本の各宗派のお祖師方の像が祀られる大講堂に参拝した。ただ、今日は、某宗教団体の特別参拝と重なって、お堂にはあがれたが、回りを拝観できなかったのは残念。それでも、天台宗のナンバー2の高僧が来山中とあって、高僧の列を拝ませてもらえた。

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  ≪濃霧の根本中堂↑≫
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 ≪モミジと大講堂↑≫
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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(4)~草庵跡・岡崎別院~

Img_5662  京都のご旧跡巡拝は17年ぶりになる。その時も、日野の里、青蓮院、崇泰院と巡り、その後で、吉水草庵跡の安養寺と法垂窟と徒歩で回った。でも今回は、安養寺には行かずに、法然聖人の吉水に百日間通われるために、親鸞聖人が草庵を結ばれたと場所に建つ岡崎別院(東)を拝観した。吉水から岡崎までは、3㎞ほどというところか。今の岡崎には、平安神宮や、国立と市立の美術館、そして動物園やホールなとが建つ文化地区で、回りにも南禅寺や永観堂という有名寺院が多数ある。

 浄土真宗の別院なので、本堂で「讃仏偈」の御参りの後、ご輪番のおImg_5680話を窺う。草庵跡といっても、ここにお寺が建つのは、江戸後期の19世紀のことだから、歴史は案外と浅い。本堂も、それほど広くはない。ご輪番の話では、檀家は四十軒足らずしかない貧乏な別院だが、無駄に大きい庭と池があるので、維持管理がたいへんだと笑わせていImg_5674た。この輪番とは、連れ合いは、顔見知りだったので、後でご挨拶にも窺った。

 お庭も見学する。横にある建物は、専修学院という東の仏教学院Img_5670があったところで、いまは、山科で統合されていて、これから再利用されていくという。聖人が流罪の時に、お姿を写された鏡池だと伝承されている。「必度橋」は、善導大師のお聖教から取られている。

Img_5686 この岡崎別院と隣接するのが、浄土宗の金戒光明寺である。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-9694.html

山門の勅額には、「浄土真宗最初門」という後小松天皇の宸翰が掲げられている。金戒光明寺と、真如堂は、20年前ごろまでは、隠れた紅葉の名所だったけれど、最近は、大勢の人達で賑Img_5688わう観光地になっている。ぼくも、何度も訪れているが、その時に、岡崎別院にも御参りさせていただくというようなことである。

 これで、初日の五ケ寺の巡拝を終えた。親鸞様の聖跡巡拝といっても、法界寺と青蓮院、そして比叡山は、天台宗。崇泰院は、浄土宗、六角堂は、天台宗系単立と、他宗ばかりである。浄土真宗のお寺としては、この岡崎別院と、外から拝観した誕生院だけである。

 

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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(3)~元大谷・崇泰院~

Img_5657   お誕生の地~お得度の地と来たら、次はご修行の地の比叡山である。しかし、地理的には、青蓮院から100メートルも離れないない場所に、元大谷の崇泰院がある。
 これは、実際に現地を訪ねてみないと実感できないが、青蓮院と浄土宗の大本山知恩院は隣接している。その知恩院の一角に崇泰院があり、吉水草庵跡の安養寺や、出会いの場であった法Img_5632垂窟も、みんなここにあるのだ。さらに、祇園の八坂神社と円山公園を挟んで、親鸞聖人の墓所である大谷祖廟(お東)がつづく。つまり、浄土宗、浄土真宗のImg_5660者にとって、この一帯は、故郷ような聖地なのである。

 これを時間軸に重ねてみると、興味深いことがわかる。
 親鸞聖人のお誕生は、承安三年(1173年)だ。法然聖人が、比Img_5633叡山の黒谷青龍院で、善導大師の御文に出会って、廻心されるのが、43歳の時で承安五年(1175年)といわれている。お師匠さまの法然様とは、40歳の年齢差であるので、親鸞様はまだ2、3歳の時のことである。そして、親鸞様が9歳で青蓮院で得度された時、すでに隣には吉水草庵が開かれ、専修念仏の声が響いていたことになる。しかし、その時は、まだ機は熟していなかっただ。その後、20年間Img_5652の比叡山でのご修行と六角堂の参籠に経て、この地に法然聖人をImg_5653訪ねられることになる。直線距離なら数百メートルしか離れていないところを、ずいぶんの遠回りをされている。しかし、その20年間の回り道の意味は、とても深いものがあるのだろう。

 さて、元大谷・崇泰院は、聖人滅後十年に、その遺骨が収められたImg_5654墓所(本廟)があった本願寺故地である。日野の里に墓所に御参りした聖人の末娘の覚信尼公が、夫の協力によって屋敷内に墳墓を造り、それが覚如上人によって寺院となり、大谷本願寺となるのである。この地で、蓮如上人もご誕生になりImg_5661_2(産湯の井戸が残る)、そして山徒による破壊(大谷破却)まで、この地が本願寺があったのだ。

 いまでは、「拝観謝絶」の看板がでているが、今回は、特別に拝観をさせていただく。こんな小さなお堂が、本願寺とは想像もつかない。もちろん、すべて破壊された後々の再建であるが、しかし、蓮如上人の貧困の故事を彷彿させるには充分な佇まいである。ここから、本願寺の歴史は始まったのである。あくまで伝承ではあるが、親鸞聖人の直筆の光明の阿弥陀様や、お木像も安置されている。また裏手には、聖人の墓塔が、ひっそりと建っているのも、有り難い。

http://www.soutai-in.org/

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     ≪親鸞聖人直筆の光明阿弥陀様↑≫
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        ≪親鸞聖人の墓塔↑≫Img_5643_2
        ≪蓮如上人産湯の井戸↑≫

 

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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(2)~お得度の地、青蓮院~

Img_5596 バスは、京都東山に戻って、智積院で昼食。ここは、長谷川等伯の障壁画で有名だが、東山の観光地に囲まれながらも、ちょっと隠れた紅葉の名所でもある。京都の紅葉は、葉っぱが小振りなのが特色でだ。

Img_5593 お庭を散策したあと、東山の粟田口の青蓮院へ。指折りの格式高い天台宗の門跡寺院である。地名から粟田御所とも称されImg_5603_2て、今日でも、皇室とのゆかりも深い。
 
 門前の天然記念物にも指定されている大楠木(クスノキ)は800年以上の樹齢を誇り、聖人の頃よりもさらに古いもので、幼きImg_5614_2日の聖人も仰がれたのであろう。

 ここに、叔父様の日野範綱公に付き添わImg_5615_2れて、親鸞聖人がお得度されたのは、九歳の春といわれている。天台座主にも成られた大物、慈鎮(慈円)和尚のもとで、剃髪得度して、範安と号している。その時のエピソードがあまりにも有名だ。夕暮れとなって、明Img_5565_2日以降の出家を勧められたとき、わずか九歳の童が

「あすありと おもうこころの あだ桜 夜半に嵐の ふかぬものかは」
と詠んだという。お庭には、九歳の幼少の親鸞さまの像と、この歌碑が建っている。同じものが、誕生院のお庭にもあった。実業家、広瀬精一氏が建立されたものである。

Img_5624 親鸞聖人当時は、今日のような青蓮院ではなく、白川房と称されていた場所ではないかという説もあるが、格調ある佇まいと、美しい庭園を眺めながら、「親鸞聖人得度の間」が拝観させていただいた。なお、時間の関係で、植髪堂は外部からの拝観に留まった。聖人がお得度の時の、盥やカミソリを拝見させていただけますので、またの機会の時にどうぞ。ちなみに、ここだけなら拝観は無料です。やはり詳しくは、以前ブログに書いていますので、お読みください。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-752d.html

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  ≪御旧跡ではありませんが、智積院のお庭↑≫Img_5600_2
   ≪青蓮院の大クスノキ↑≫
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  ≪青蓮院の植髪堂↑ここだけなら無料≫

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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(1)~お誕生の地、日野の里~

Img_5526 3年ぶりの聞法旅行である。国内では、第40回目だ。他に、海外の聖跡巡拝は、インド、中国、シルクロードなどが8回あるが、これは別カウント。

Img_5538 聞法旅行は、これまで2泊3日間であったが、ひとりでも多く参加してもらいたいので、1泊2日に短縮した。おかげで、大分や福岡の九州組、山口、広島、高知の四国・Img_5539_2中国組、新潟や福井の新潟・北陸組に、そして東京、千葉、埼玉、神奈川の関東組に、静岡、愛知、高山などの東海組、さらには、近畿圏の皆さんと、遠近各地から京都にご参集くださった。

 Img_5528これまでの3日間に比べると、ご法座という意味では、分級座談会もなく物足りない部分はあった。それでも、親鸞聖人の歩みを味わいながら、ご旧跡を歩ませてもらうのは、その場に身を置き、空気を味わわせてもらうImg_5546意味でも貴重な時間となった。その一部ではあるが、拝観の順番にたどっていこう。

 まずは、台風の影響を心配しながら、京都に集合。まずはお誕Img_5550生の日野の里に向う。京都市伏見区と宇治市が入り組み、新興住宅地と旧街道の古い雰囲気が交差しているあたりだ。中でも、日野の里の一帯は、静かな雰囲気が残っている。この地で、承安三年(1173年)に、親鸞さまはお生まれになった。平安末期、武士の世が台頭していた不穏な時代である。幼名は、松若Img_5545麿と申された。親鸞聖人のご出身の日野家の菩提寺である「法界寺」から旅はスタートした。

  国宝「阿弥陀堂」に御参りする。華光会のし切り状態である。中央には丸みを帯びた体躯と柔和なお顔の、国宝「阿弥陀如来坐像」がお迎えくださる。聖人が、子供の頃から拝まれていたという阿弥陀如来である。おいわれを丁寧に解説いただく。回Img_5566_2りの壁や柱の飛天や障壁画も、ライトで照らして見せていただいた。最後に、行道できるお堂形式の中を、皆さんと一緒に、口に「南無阿弥陀仏」と申し、心に阿弥Img_5571陀仏を念じながら、一周だけ行道を行った。ここは、日野乳薬師の別名で知られるのは、隣にある「薬師堂」が有名だからだ。今春、51年ぶりに特別拝観で開帳された薬師如来像や法界寺については、このブログでも詳しく触れているので、こちらをお読みください。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-27a3.html

Img_5572 さて、法界寺の隣接する保育園を挟み、誕生院にも御参りする。本願寺の飛び地の境内地で、建物自体は、昭和の創建。根本中堂模した回廊造りの落ち着いて雰囲気のするお寺である。

Img_5577 裏手に日野家の墓所がある。鶴の家紋は、某航空会社を思い出させるが、無関係だそうだ。
 墓所といっても、五輪の塔が4つのほどある質素なもの。中央が親鸞聖人のお父様、日野有範公(右上の写真)、右手にお母様の吉光女さま、左手は、叔父様の日野範綱公で、ご両親亡き後、聖人をお得度させてくださった恩人である。そしてその隣に、聖人の末娘、覚信尼公の墓所である。本願寺の基盤を造るきっかけとなる真宗の大恩人である。

 日頃は訪れる人もなさそうな素朴な五輪塔を前に、静かに手を合わさせてもらった。
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   ≪法界寺の国宝「阿弥陀堂」↑≫
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      ≪日野誕生院↑≫
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  ≪親鸞聖人の末娘、覚信尼公の墓所↑≫

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「善根功徳を積む」ホンマ?

 支部法座を前に、南区一切清掃に参加する。
 雨なら中止。昨日は、他の役員さんが、「雨降りますよ」と言っていて、ちょっと期待してしまったが、曇天である。

 南区といっても、町内のゴミ拾いだ。ぼくの担当は、リカマンからお隣の会社ぐらいまで。右隣の会社は、仕事柄いつもきれいに清掃されている。しかしである。駅を利用する人なのか、とにかくタバコの吸殻が多い。ペットの糞もある。ペットボトルも落ちている。

 そして、それより左隣の工場の前は、草ぼうぼうで、晩秋には敷地の枯れ葉が落ちてきて、いつも掃除がたいへんだ。工場の方は、掃除をする気配がない。それで、隣の草抜きをすることにした。枯れ葉やゴミが溜まっている。暑くて半スボンだったが、ひたすら蚊にさされまくった。
 
 汗もかいたが、おかけできれいになった。爽やかな気持ち。しかも、お隣の方はご存じない。陰徳を積ませていただき、少しは善根功徳が積めたのではないか(こんなの功徳じゃないよ)。

 ところが大阪支部法座から帰ってくると、もう家の前には吸殻が落ちている。やれやれ。吸殻は小さいが、雨に濡れると厄介。間違いなく、喫煙者の方の所業だ。彼らのマナーの問題だけど、嫌いなのもは嫌いである。でも、清掃のおかげで、前道の吸殻はすぐ拾うようにはなりましたが…。

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錆にむしばまれた鉄

 このところ天気がさえない。北海道や東北では、度重なる台風で大きな被害も出ている。

 今日は、久しぶりの晴天だ。しかも、今後もまた天気は下り坂で、1週間は晴天望めないという。
 ならばと、布団を干し、たまっていた洗濯をする。

 ほとんど干し終わり、もう少し日なたに出そうと動かしたとき、突然、洗濯竿が真っ二つにおれた。
 せっかく干した洗濯物が汚れて、あわてて拾う。

 竿は、以前からボロボロになっていたもので、買い換えの話は出ていた。それは、塗装はとうに剥がれ、錆び付いてはいたからで、まさか折れるとは。中は空洞とはいえ、鉄製の物干し竿が、洗濯物の重みで折れるとは想定外で、びっくりしたのだ。

 いや、鉄製だからこそ、身から出た錆で、こんなに見事に真っ二つに折れたのだろう。

「鉄から出でくる赤錆が、鉄をむしばむ。そのように、
 けがれた行為をする人は、自分の業で堕落する」(法句経)

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認知症予防

 今年は、町内の三役が当たっている。
 町内のことだけでなく、地域の保健委員や、防災部長も担当せねばならない。

 今日は、保健委員の仕事で、京都駅八条口のイオンモールのホールであった、南区の講演会に出席する。

 お偉いさんの挨拶やら、だいたいが保健関係や美化関係の話がほとんどだったが、健康促進ということで、高齢者でもできる座ったままでの体操の実演もあった。認知予防の簡単なゲーム(体操)もあったが、ちょっと工夫すれば、聞法旅行の車中や、法座の冒頭でもつかえるようだな。

 まあ、たまにはこんな集いも新鮮で、少しは役にたつのかなーと。

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「なんぢ起ちて衣服を整へよ」

仏眼に映る痛ましい人間の現実生活である三毒五悪段が終わると、釈尊は、おもむろに、阿難尊者に、

「なんぢ起ちてさらに衣服を整へ、合掌し恭敬して無量寿仏を礼したてまつれ。十方国土の諸仏如来は、つねにともにかの仏の無著・無碍なるを称揚し讃歎したまへばなり」

と、お命じになる。

 そのお言葉にしたがい、西に向って、無量寿仏を礼したてまつった阿難尊者の願いに応じ、「即時に無量寿仏は、大光明を放ちてあまねく一切諸仏の世界を照らしたまふ」のである。

 阿弥陀如来とその浄土を目の当たりにご覧になるのだが、それは、光明の世界であり、光明の仏である。つまり智慧そのものであるが、しかし、その智慧を疑うものは、浄土の報土には生まれられず、辺地とか疑城胎宮といわれる化土に留まるというのである。
 浄土真宗が信疑廃立の水際をたてる所以である。

 その重要な一節が、釈尊の「阿難よ、立ち上がって衣服を整え、合掌してうやうやしく阿弥陀如来を礼拝しなさい」と仰っる一言から、真仮の分際のお説教が始まったのである。

 そして、この釈尊と阿難のやりとりで思いだしたが、『仏敵』の一節である。

 若き日のおよし同行と、その善知識である善光寺さまの会話である。

 その前の説教の終わる間際に、「当流には捨てものと拾いものとがある。これが分からねば百座千座の聴聞もなんの役にも立たぬ」と言って、善光寺さまは高座をポイと飛び下りられるのである。そこに不審を感じたおよしさんが、善光寺さまに尋ねられるのである。

「お前はえらいところへ気がついた。これは大事の問題だがら、ちょっとオイソレと言った具合に軽く話すのはもったいない」と仰せられて、まず口をすすぎ顔を洗い、袈裟を掛けて、謹厳な態度で物語れました。「当流には二つものがある。捨てものと拾いものの二つがある。…」

と、当流の水際の要をお説きくださるのである。

 『大経』の会座では、聴き手の阿難尊者が衣服を整えた。

 『仏敵』では、説き手の善光寺さまが、口をすすぎ、顔を洗い、袈裟を掛け直られるのである。

 それほどの一大事が、今から説かれようとしているというのである。

(余談)以下はちなみにの話である。

 「無量寿仏を礼したてまつまれ」と、ここでは礼拝のみが勧められる。
 ところが、初期の無量寿経には、礼拝に加え、『大阿弥陀経』では、「なんじ起ちて更に袈裟を被て、西に向かいて拝し、日の所没する処に当たりて、阿弥陀仏の為に礼をなし頭を地に着け、南無阿弥陀三耶三仏檀と言え」と告げられ、同じく『平等覚経』では、「南無無量清浄平等覚と言ふ」と告げらた。まさしく「南無阿弥陀仏」を称えよ、と勧められているのである。

 ところが、後期以降はすべて称名が省略されている。それで、あくまで推測で初期の無量寿経から補うならば、この礼拝には称名も含まれているのではないかと味わっている。もっとも、称名・礼拝によって、見仏・見土を得ていることが窺えても、浄土往生とはまだ区別されている。

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9月の聖典講座-慈悲から智慧へ~

 「釈尊の勧誡」(お釈迦様のお勧めと誡めのお説教【三一~四六】)は、主聴衆が、阿難尊者から弥勒菩薩が変わり、場面が急転化した。大きく二分科されるところだが、前回で前半の「大悲摂化」(「三毒・五悪段」・「浄穢欣厭」)段を窺った。そして、今回から、後半にあたる「現土証誠」段に入る。古来より、「開顕智慧」(智慧)段と味わわれたり、「胎化得失」(胎化)段とも言われている。そして、上巻から続いた「正宗分」(いわば本論)のご説法は、ここで終わるのである。

 さて、前段の「大悲摂化」は、 釈尊が大悲のお心から、仏眼に映る痛ましい人間生活の現実を説かれた段であった。さらに大悲「慈悲」のお心で説法された釈尊が、続いて阿弥陀如来の「智慧」について説法に入られる。慈悲から、智慧への展開されるのだ。

 概観すれば、光明無量の阿弥陀如来とその浄土を目の当たりに拝まされ、その浄土の中に、化生と胎生の者があることを示し、阿弥陀如来の疑う罪を誡め、如来の智慧を信じる(他力の信)ことを勧められている。

 皆さんの声を聞くと、私の痛ましい人生の実相が説かれる三毒五悪段は、私の姿と重なってくるので、(耳は痛いが)実感しやすい身近な段で、人気もある。

 ところが、後半の智慧段、胎化段になると、関心は薄くなるようだ。浄土の胎生の存在がわかりづらいこともあるが、慈悲によって明らかになる罪悪の方が、智慧によって照らされる疑惑よりも、実感しやすいからであろうか。

   しかしである。親鸞さまは、こらちをたいへん重視されている。この真仮を分際する、信疑の廃立こそが、浄土真宗の真骨頂といてもいいのだ。それは、『顕浄土真実教行証文類』の構造をみても明かである。また、『三帖和讃』の構造を窺ってもそうで、全体を総括する巻頭讃の二首が、勧信と誡疑で始まり、そして正像末和讃の終わり近くに、この段をまるまる素材とした二十三首もの誡疑讃が作られているのである。(つづく)

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釈聞名 十三回法要

 午前中、淀の京都競馬場を過ぎたところあるK家のご法事。

 20代後半から30歳の若いころ、月1度、この道を通ったのが、懐かしい。
 毎月、家庭法座を開いてくださっていたのである。まだまだ未熟なぼくを育てるために、半人前を、一人前の先生として迎えてくださっていたのだ。同じことは、学生時代からお世話になっていた日高(当時は江原)のTさんや、その同人たちにもいえる。ご法話をする機会や経験をくださり、自ら頭を垂れ、長い時間をかけてお育てくださったのである。

 それだけではない。華光会にしても、どれだけのご恩徳を受けてきたことだろうか。父の片腕として、華光会のいわば門徒総代の役割を長年担ってくださっていた。普通、お寺の門徒総代は、地元企業の社長とか、もともとの地主層や学校の校長先生など、いわば地元の名士や有力者が担われることが多い。その点、Kさんは、まったく華光らいし役員である。

 普通に家庭をもち、親を介護し、一介の社員として勤めあげられた方だ。けっして学歴があるわけでも、風采があがるわけでもない。痩せたからだに、服装もかまわず、古びた軽にのって、夏には、下着姿で、タバコを加えながら、会館にお出でになっていた。

 しかし、その外見とは違って、いざとなるとあれだけ腹の座った方もなかった。今生事は軽く、仏法は重くのご生涯である。その最期の臨終も、また凡夫の生地のわがままをそのままお示してくださったなが、これまたすさまじかった。

 病院のべットで、やせ細り、やたらと寂しげな眼光をこちらを向けて、何もいわずに強く手を握りしめ続けてくださったのが、最期にお別れとなった。
 待合室テレビでは、ちょうどアテネオリンピックの最中。アスリートたちが若さ溢れる全身全霊をかけて活躍している姿か、なんもとまぶしくて映っていた。

 Kさんのご往生から12年。この機会に、ぼくにかけてくださった篤い願いに心は馳せながら、ご遺族と共に、ご遺徳をしのばせていただく尊いご縁となった。ご家族のお言葉も尊かった。

 南無阿弥陀仏

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広島法座~阿弥陀経さま~

  広島でのカウンセリングWSから戻って、また広島の法座に出る。今度は、華光会の広島支部法座。 

 『仏説阿弥陀経』の勤行のあと、簡単に概観を窺う。
 阿弥陀さまとその麗しき国土についてのご説法と、その極楽に生まれる方法は念仏往生であることが語られたあと、六方段へと続いていく。
 勤行された感想をお尋ねすると、「○○仏」の名前がよく出るとか、同じ文言の繰り返しがあるとかというお答えが帰る。そこが、六方段である。東方、南方、西方、北方、さらに下方と、上方、つまり六方-全宇宙にましますガンジス河の砂ほどの諸仏方が、三千世界を覆の舌を出して、阿弥陀様のお徳を讃え、お勧めくださり、真実であることを証明してくださっているのである。諸仏の護念、証誠である。
 そして、最後には、釈尊御自身から、この五濁悪世の娑婆に出でましましたのは、最高の悟りを開き、そして娑婆われわれに「難信の法」-自力で信じることが難しい弥陀の本願の教えを説くためであって、そのためにその伝道の生涯をなし遂げてきたことを語られる一段で結ばれる。
 このお経は、釈尊の説法の結びのお経(一代結経)であり、親鸞様は、出世本懐の経であると述べておられるのだ。

 ところで、ぼくが、「阿弥陀経さまには~」とお話していたら、「お経に「~さま」とお付けになるってすね」とたいへ驚いて反応される方があった。いや、こちらがびっくりである。意識していっているわけではないので、そんなことは気付かなかったが、確かに「阿弥陀経さま」とか、「大無量寿経さま」とお話しする時がある。でも、それは当然のことで、阿弥陀さまやそのご本願が説かれたお経さま方のであるから、呼び捨てにするのは勿体ない。
 そのことを参加者の一言から、改めて気付かされたのである。

 

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『いしぶみ』

Img_5452  平和公園にいった目的の一つは、本川沿いに建つ「いしぶみ」にお参りしたかったからである。

 先日、『いしぶみ』という映画をみた。是枝裕和監督の作品で、女優の綾瀬はるかが主演して、演劇的なセットの中で、「いしぶみ」を朗読Img_5464するのがメーンで、その合間に、登場人物の家族や遺族を、池上彰が訪問してインタビューするというシンプルな構成だ。

Img_5463_2  空襲に備えた建物疎開で、空き地を後片付けの作業のために、集合していた、広島二中の321名の生徒と4名の教師たちの頭上で、原子爆弾が炸裂する。即死者やImg_5461不明者も多数いるが、重体の体で自力で自宅戻ったり、子供を探す父母たちと再会した者たちの最期の姿が、それまで日記や遺族の証言などでに克明に描いている。

 Img_5448_272年たってなお、戦争や原爆の悲惨さと、親子(家族)の絆の深さが、リアルに伝わってきて、何度か目頭を押さえた。平和記念館に展示されていた原爆でボロボロになっている「制服」の、その持ち主であった中学生の弟(の遺体)を発見するまでのことを、その遺族(兄さん)が語っているシーンと、その実際の制服を前に胸が痛んだ。

Img_5523  10万人以上の名もなき犠牲があるのではない。その一人一人に名があり、それまでの人生があり、そして家族があったことを改めて教えられた。

  映画は、リメーク放送である。もともとは、女優の杉村春子が朗読して、1969年に広島テレビで放送され、それが、翌年、ポプラ社から出版されている。それらを参考にしながら、今回、新たに映像化されたのである。

 いまだに、ぼくの本棚にも「いしぶみ」がある。発刊当時のものだ。小学校の高学年だったぼくに、I先生がくださったもので、いまでも大事にしている。

 映画をきっかけに何十年ぶりかに読み直した。子供の時とは違って、いまは完全に親の目線で読むことになって涙を禁じえない。

 

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広島平和記念資料館

Img_5504_2  今年の広島カウンセリングWSは、会場を神田山荘から市内中心部に移した。通いでも参加しやすいように配慮したのだ。平和資料館前のある平和公園には、徒歩でも5分ぐらい。両日の昼休みとも、平和公園を散策した。

Img_5467 最終日、6年ぶりに平和資料館を訪れた。6年前は、子供たちも一緒で、ぜひ原爆の惨状を見てもらいたかった。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-7cec.html

Img_5470 その6年前は、初めてアメリカ大使が訪問したことで話題になっていた。5月に、アメリカのオバマ大統領が訪問し、また注目されている。

6年前は、大人50円の入館者が、200円になっていた。 

  平日にも関わらず、大勢の観光客がで賑わっている。制服姿の学Img_5501生もいて日本人もたくさんだが、それより海Img_5500外の方が目立っていた。

それもアジア系よりも、欧米の人達が多いように思えた。本館がリニューアル中ということもあって、中も混み合っている。しかも、誰もが、食い入るように真剣に見学されていた。ストロボでなければ、展示品を写真で撮っていいのだが、Img_5502カメラやスマホをむけている人がほとんどいない。軽々にカメラを向けることをためらわすだけの重い、原爆被害の証言の品ばかりなのだ。

 Img_5505そんな中で、ひときわ黒山の人だかり。しかも、みんながカメラを向けている展示がある。ああ、なるぼど、これか。人込みの合間から、ぼくもシャッターを切った。ガラス越しなので、光ってうまくはとれなかったけれど、6年前には想像もできなかったことだ。
Img_5472 慰霊碑の前での演説は、この8年間の成果を考えると白々しい感じがした。しかし、アメリカ大統領が被爆者を抱きしめたシーンには、心動かされた。

 原爆投下から72年。
 もう二度、核兵器が使用される世界には絶対に戻ってならない。ますます危機感が募る中で、唯一の被爆国の役割も大きい。

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