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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(9)~番外篇

 今回の京都の親鸞聖人御旧跡は、お誕生からご流罪までの35年間が中心で、帰洛後30年の晩年やご往生後のご旧跡は訪れなかった。3日間の計画の時には予定に入っていたが、写真程度だが、興味のある方は京都にお出ましのおりにはぜひ。

Img_2339_3ご往生の地(光円寺)

 『伝絵』によると、60歳を過ぎて、京都に戻られた聖人はそのお住まいを転々と移っておられる。そのうち、「五条西洞院」に一時お住まいになる。いまの、松原通西洞院である。現在の五条通りは第二Img_2338_2次大戦の建物疎開で道幅が拡充されて、鴨川にかかる五条大橋には「弁慶と牛若丸像」が建っている。が、しかし、もともとの五条通は、今の松原通あたりなので、この松原京極の商店街のロゴも、弁慶と牛若丸である。

 この商店街の一角に、ひっそりと光円寺は建っている。同じ『伝絵』の平太郎の熊野詣で有名な大部平太郎が、この地を訪ねている。お寺の伝承では、この地で、親鸞聖人が遷化されて、すぐに遺体は、聖人の弟、尋有(じんゆう)の坊舎である善法院跡に移されたと言い伝えられる。

Img_2804ご往生の地(善法院跡)

 ここは、比叡山から六角堂に行く時に、バスの中から拝ませていただいた。昔は、この碑が、柳池中学校の敷地内にあって御参りしずらかったが、学校統合で御池中学校になったのを機に、前面に碑が出されている。東本願寺ではここが往生の地だといっているが、今日ではその説が有力である。

 『伝絵』には「押小路南、万里小路東」とある。また関東の高弟であった高田の顕智が訪ねた記録では、「三条・富小路」の御坊とあるのとも、符合してくる。しかもこの地の町名は「虎石町」である。善法院の井戸跡から堀り立たれた虎が伏したような石が、町名の由来だというのである。

Img_3178_3ご往生の地(角坊)
 
 ところが、西本願寺では、右京区山ノ内こそがご往生の地といっている。昔は、角坊別院(いまは、日野誕生院と同じく本願寺飛び地Img_3180境内)が建っていて、中央仏教学院が隣接している。しかし、ここに角坊が建ってたのは、比較的新しくて、江戸末期、聖人の六百回忌の時のことである。

大谷本廟

Img_7119 西本願寺の親鸞聖人の御廟。清水寺に隣接する。今回の旅では、往復この横を通った。東本願寺では、大谷祖廟といって、祇園の八坂神社や吉水の草庵跡に近い。親鸞聖人の墓所、特にお骨をおまつりしているところは、京都以外にもあって、その中でも有名なのは越後の浄興寺。聖人Img_7114の頂骨が安置されているという。十派以外のご本山である。

 そして、その近くまで行きながらまだ訪れたことがないのが、荼毘の地と伝えられる今熊野の延仁寺である。今秋の紅葉のころ、ぜひお訪ねしたいと思っている。

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