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京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(3)~元大谷・崇泰院~

Img_5657   お誕生の地~お得度の地と来たら、次はご修行の地の比叡山である。しかし、地理的には、青蓮院から100メートルも離れないない場所に、元大谷の崇泰院がある。
 これは、実際に現地を訪ねてみないと実感できないが、青蓮院と浄土宗の大本山知恩院は隣接している。その知恩院の一角に崇泰院があり、吉水草庵跡の安養寺や、出会いの場であった法Img_5632垂窟も、みんなここにあるのだ。さらに、祇園の八坂神社と円山公園を挟んで、親鸞聖人の墓所である大谷祖廟(お東)がつづく。つまり、浄土宗、浄土真宗のImg_5660者にとって、この一帯は、故郷ような聖地なのである。

 これを時間軸に重ねてみると、興味深いことがわかる。
 親鸞聖人のお誕生は、承安三年(1173年)だ。法然聖人が、比Img_5633叡山の黒谷青龍院で、善導大師の御文に出会って、廻心されるのが、43歳の時で承安五年(1175年)といわれている。お師匠さまの法然様とは、40歳の年齢差であるので、親鸞様はまだ2、3歳の時のことである。そして、親鸞様が9歳で青蓮院で得度された時、すでに隣には吉水草庵が開かれ、専修念仏の声が響いていたことになる。しかし、その時は、まだ機は熟していなかっただ。その後、20年間Img_5652の比叡山でのご修行と六角堂の参籠に経て、この地に法然聖人をImg_5653訪ねられることになる。直線距離なら数百メートルしか離れていないところを、ずいぶんの遠回りをされている。しかし、その20年間の回り道の意味は、とても深いものがあるのだろう。

 さて、元大谷・崇泰院は、聖人滅後十年に、その遺骨が収められたImg_5654墓所(本廟)があった本願寺故地である。日野の里に墓所に御参りした聖人の末娘の覚信尼公が、夫の協力によって屋敷内に墳墓を造り、それが覚如上人によって寺院となり、大谷本願寺となるのである。この地で、蓮如上人もご誕生になりImg_5661_2(産湯の井戸が残る)、そして山徒による破壊(大谷破却)まで、この地が本願寺があったのだ。

 いまでは、「拝観謝絶」の看板がでているが、今回は、特別に拝観をさせていただく。こんな小さなお堂が、本願寺とは想像もつかない。もちろん、すべて破壊された後々の再建であるが、しかし、蓮如上人の貧困の故事を彷彿させるには充分な佇まいである。ここから、本願寺の歴史は始まったのである。あくまで伝承ではあるが、親鸞聖人の直筆の光明の阿弥陀様や、お木像も安置されている。また裏手には、聖人の墓塔が、ひっそりと建っているのも、有り難い。

http://www.soutai-in.org/

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     ≪親鸞聖人直筆の光明阿弥陀様↑≫
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        ≪親鸞聖人の墓塔↑≫Img_5643_2
        ≪蓮如上人産湯の井戸↑≫

 

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