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2016年8月の27件の記事

充実した3日間~広島カウンセリングWS

 週末の東京法座をおえて、広島に向った。
 3日間の広島カウンセリングワークショップである。主催は、真宗カウンセリング研究会だ。
 広島でのWSは、第1回の2泊3日のワークショッブから世話人をさせてもらっているが、今回が9年目(9回目)ということになる。3年前からメーン世話人であるが、特に今年は、このワークショップの提唱者であるM先生が欠席された初めての集いとなった。
 
 3日間をおえて、帰宅して開口一番、「いい集いだったわ~」と言っている自分がいた。

 冒頭では予期せぬハプニングもあった。しかし、決められたシナリオやプログラムにはない、その時、その場での、今の出会いがあった気がする。世話人も、僧侶だとか、門徒だかといった肩書を脱いで、各々の違いを超えて、他者の声に耳を傾け、また自分を開いてありのままの自分を伝え、そして出会っていった。華光の同人が極めて少数派であったこともよかった気がする。メンバーにもずいぶん助けられた。おかげで、これまでとは一味違った、充実した3日間を過ごすことができた。

 同時に、自らの未熟さもよくわかった。これも、先達のM先生がおられたらばこそである。その態度に出会い、先生抜きの集いであったればこそ、至らぬ自己を教えられる場面もあった。至らぬ自己、聞くことができないない自己に出会うからこそ、少しでもそこに近づきたいと願うのである。道半ばではあるが、一歩でも前に進んで行きたいと願う自分もいた。

 法話がなくても、先生の講義がなくても、また華光の同人が集わなくても、ご法を身にかけてお聞かせ預かる3日間でもあった。

 ラストに行ったサイコドラマでも、人生の実相に聞かせてもらい、その方と深いところで出会わせてもらえたのだ。

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東京支部法座~「舎利弗 於汝意云何」

 週末は、東京支部法座。今回の世話人から提案をいただき、初日は、悟朗先生の一周忌に因んだ法座を開く。一同で『阿弥陀経』をお勤めし、そのお心をお取り次ぎしたご法話。 

この経を、無問自説経と言う。

「舎利弗よ、そなたはどう思うか」と、お釈迦様は尋ねられた。

 今生でのお別れが迫った長老舎利弗に、釈尊は「舎利弗よ」「舎利弗よ」と36回も呼びかけられて、そして「そなたはどう思うか」と問われながらも、その答えを待たずに、一方的に阿弥陀仏とその国土についてのご説法をされ続けられるのである。

 相手は、凡夫ではない。羅漢の悟りに達し、釈尊の後継者として認められていた長老、舎利弗尊者である。
 しかも、智慧第一と称される釈尊の愛弟子だ。

 その智慧第一の舎利弗さまに、

「舎利弗よ、そなたはどう思うか。なぜ、その佛を阿弥陀と申しあげるのだろうか」と問われ、その答えを待たずに

 光明無量(智慧が無量)であるがゆえに「阿弥陀」であり、寿命無量(慈悲が無量)であるがゆえに「阿弥陀」であり、そしてすでに成仏以来十劫という長い月日がたったいることをお説きくださった。

 光明無量、寿命無量の阿弥陀様やその光明の浄土について、声聞さまのお悟りではとやかく計らうことができなかったのではないか。智慧第一と称される舎利弗尊者をしで計らうことのできない世界なのである。まさに仏みが知りうる仏様の世界なのである。いや智慧第一の御方だからこそ、声聞の智慧では計りしれない仏の世界であることがお分かりになり、沈黙をされ、釈尊のお説法に頭を垂れて聞く以外にはなかったのではないか。

 いわんや、泥凡夫のわれわれおや、である。

 

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親鸞『西方指南抄』現代語訳

相愛大学名誉教授の新井俊一先生の 親鸞聖人の『西方指南抄』の講義。発行されたばかりの親鸞『西方指南抄』現代語訳が、テキストである。

51gtrxxnzyl__sx338_bo1204203200_『西方指南抄』は、法然聖人の法語や消息(手紙)、行状記を、親鸞聖人が集録した書で、三重の専修寺に伝わるものが、聖人の八十四歳の直筆として国宝に指定れている。このブログでも触れたが、法然聖人は、その華々しい活躍や著述に比べて、直筆が極めて少ない御方である。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-6dc3.html

   お弟子による法然聖人の言行録は、たとえば『漢語燈録』や『和語燈録』など多数があるが、本書は現存するものとしては、そのどれよりも古く、またこの書にのみ集録されものもあって、きわめて貴重なものである。

 しかし、親鸞聖人の直筆があるのに、「真宗聖教全書」第二巻・宗祖部(親鸞聖人の著述)からも外れ、本願寺の「浄土真宗聖典」にも集録されておらず、『漢語燈録』や『和語燈録』と同じ扱いで、「真宗聖教全書」第四巻(拾遺部)に収録されている。つまり、真宗の立場からみると、親鸞聖人の著述というより、法然聖人の言行録として傍流の聖教という立場におかれている。ならば、浄土宗からは高い評価があるか。というと、あくまでも、親鸞が浄土真宗の立場で集めたものとして、端に追いやられているというのが、現状だそうだ。

 また、この書は、三巻(それぞれ上下があるので、六巻とも見える)あるが、各巻の奥書の乱れなどから、親鸞聖人が直接、編集したものではなく、もともとあった別の本を底本として転写したのではないかという説が有力であったりもした。今日では、その矛盾を説明する説も出され、親鸞編集説が有力になっている。確かな意図をもっとて聖人が編纂されたのは確実ではないだろうか。
 
 平安浄土教から鎌倉時代の親鸞聖人の浄土真宗に至るまで、その継承され展開された歩みを考えるとき、平安末期の法然聖人の果たされた役割は計れ知れないほど重大である。法然さまと親鸞さまの教えでは、一見、異なるような思想(臨終来迎と平生業成とか、一願建立と五願開示とか)もあるが、実は、すでに法然聖人の中にその萌芽がみることができるのであって、その点を味わう上でも、本書の役割は大きいというのである。第一、聖人自身は、法然聖人のみ教えをそのまま継承されていると味わっておられるのであって、その広大な祖師のご恩徳に報いるためにこの書を編纂されたのであろうから、それも当然であろう。

 じっくり読ませていただこう。
 皆様にもお勧めします。

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学生時代へ

 Img_5434朝、自転車で、龍谷大学の大宮学舎に向う。
 教室に入り、9時の授業のチャイムを待って、1時限目の講義が始まった。

 大学卒業後も、何度かこの校舎で講演や講義を受けてきている。Img_5435が、1時限目からスタート講義は、学部時代以来だ。35年前の学生時代にタイムスリップしたような感覚が、何とも不思議だ。Img_5433学生時代、この9時からスタートが苦痛で、遅刻や欠席せしばしばであった。翌年からは、2時限目以降の授業を取るようにしていたが、それでも、遅刻しないために必死だったのが、なぜか思いだされた。

Img_5438 北と南の学舎(まなびや)はきれいに整備されて、いまでは重要文化財に指定されている。

 そして、東にあった古い鉄筋の校舎は取り壊されて、更地になっていたのには、驚いた。いまは、埋蔵文化財の調査中。お隣の興正寺の伽藍がすぐ近く見える。華園邸も、学生時代に遊びに寄せていたいだことのある思い出の場所。

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恩師の薫陶

Img_5429 一昨年の9月にご往生された信楽峻麿先生のゼミ生の懇親会に出席する。先生の三周忌の集いだと思っていたら、「生誕九十年 その教えを再確認し、心に刻む会」と題されている。ゼミ生以外にもさまざまな先生の活動の中でご縁を結ばれた方々も集っておられたる。

 先生とは、教義的な立場で異なる点もある。しかし、立場が異なるからこそ、理解するためにはよく聞き、学ぶ必要がある。それだけに値する大きなものがあるのだ。

Img_5430 そして、そのおかげで僕自身、少しは先生のお言葉が身に沁みるようになってきた。「20代の時は、ほんとうは何も分かってなかったですね」と隣の方も話された。もっとも、いま、どれだけ分かったのかと問われれば、いまだに覚束ない限りではある。

 確かに、み教えの理解という意味では、まだまだ道は半ばだろう。それでも、恩師の人格を通し、また真実を明かすために貫き通された生きざまで伝えてくださったことが、わが身に沁みてくるようになったと、少しは味わえるようになった。これだけは、どんなにネットが発達し、またどれだけ著書で知識を得ようとも、同時代を生き、出会えたものだけが得られる特権である。

 

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重い一言

 華光誌輪読法座での一コマ。

 母が、オリンピックのメダリストの特集番組をみて、味わいを語っていた。アスリートは、誰もがオリンピックを目指して、何年にも渡る苦しい努力やトレーニングを必死にしている。しかし、その努力をみんなは知らない。ただ、目先の試合の結果だけで、一喜一憂しているだけで、時には厳しく批判したりもする。しかし、観る者を感動させる裏には、人知れぬたいへんな努力があるのだ。

  翻って、わが身を問う。仏法繁昌のために、どれだけのことを私はしてきたのかと。

 生涯を仏法にかけ、大病もした母の言葉だけに、ぼくには重い一言。

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惑染凡夫信心発

 今日は朝から、業者による窓の掃除と、3階の研修場のタイルカーペットの掃除があった。いくらまめに掃除をしていても、3階の外窓までは、ぼくたちでは手が届かない。

 そして初めて、タイルカーペットのクリーニングもしてもらった。

  終了し、仕上がりをみて驚いた。きれいになっているはずが、逆に、お茶やコーヒーの汚れが、すごく目立って浮かび上がっているのだ。グレーのカーペットがきれいなった分、取れないお茶などの汚れが表面に浮かび上がり、ますます目立っている。20年以上も使っているのだから仕方ないが、どうやら一端、染みついた汚れは、ブロでも落とせないということらしい。

 あまりにひどいので、一部は、机などに隠れる端のものと交換してごまかしたが、どうしても動かせないところももある。

 まるで仏法じゃないですか。

 聞法を始めたら、信心を得たら、きれいになると誤解してたけれと、仏さまの白い心に出会ったならば、ますます闇が黒く浮かび上がってくる。染みついた惑いは、プロでもどうすることはできない。

 しかし、その惑染凡夫なれども、他力ならばこそ、ご信心が発起する不思議がご法にはあるのだ。

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ブラジルでのオリンピック

リオのオリンピックが終わった。

 開始前は、いろいろケチはついたが、日本ではずいぶん盛り上がった。

 サンパウロにいる子供たちに聞くと、現地(リオではないのこともあるが)は、オリンピック一色ではなかったらしい。彼の地は、サッカーの国であるようだ。日本とは季節も反対で、いまは短い冬休みが終わって、8月1日から学校も始まっている。リオは夏の装いだが、サンパウロは、先日サクラ祭りも終わって、春がやって来たという。ブラジルに渡ってまる1年。

 リオオリンピックのおかげで、ずいぶんブラジルのニュース(不安なことも多いが)を目にする機会が多かった夏。

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地蔵盆

Img_5418_2 朝から、町内会の地蔵盆の準備に出る。
 特に、京都市内では、町内ごとにお地蔵さんをおまつりして、子供の大切な伝統行事として、各地で受け継がれている。

http://kyo-tsunagu.net/jizo/

Img_5422 本来は8月24日だが、だいたいお盆がすぎの第3日曜日に行う町内が大半だ。今日は、回りの町内でも、あっちこっちで、地蔵盆が開かれていた。ぼくが子供のころは、2日間の、夏休み最後のほんとうに楽しい行事だったが、いまは1日だけになって、ぼくたち役員も、早く終わって、片づけてしまうという空気感もある。

 この町内も、子供の数(幼児、小学生)は減って、一桁台にはなった。Img_5423それでも、みんなが集まって、お菓子やジュースをもらい、「あてもん」をしたり、スーパーボールすくいをしたり、福引をして解散となった。恒例のスイカ割りは、都合で中止となったが、夜には、花火大会もあった。

 Img_5427壬生寺から、お坊さんが御参りくださる。聞き慣れないお地蔵さんのお経をお勤めくださる。新撰組で有名な壬生寺は、京都は珍しい律宗のお寺だ。町内の安穏と、子供たちの健やかな成長を祈願する表白があがっていた。この町内にはないが、御参りの前に、子供たちが、大きな数珠を繰る数珠回しをする町内も多数ある。減ってはきていても、長らく京都の隅々に残る伝統である。

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夏フェス

Img_5393 法座が終わって、すぐに別会場に移動する。運営副委員であるOさんのバンドが、高山市国府町の夏フェスに出演しているのだ。バンドは、マニアックなものではなくて、ちょっと懐かしいハートフルなImg_5407演奏が持ち味だ。なんでも、ファンクラブならぬ、フアン(不安)クラブがあるそうで、ちょっとしたうれっ子。明日も、隣市の古川町でのイベントに出演するという。

Img_5404 高山も、想像以上に暑かったが、夕方には空模様はあやしくなってきて、途中、雷雲と共に土砂降りにもなったが、どうにか2Img_5403度のステージは無事に終わった。

この地域のおいしいB級グルメの屋台もたくさんでていた。残念ながら、おいしそうなビールは眺めるだけでお預けだったのは、残念。でも、法座の後に、ステージを見せてもらえ、いい気分転換。

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道俗時衆等

Img_5387_2   翌日は、H家を会所にしての法座。広いお庭と、美術館のような彫刻に囲まれてのご法縁である。

Img_5385_2   先ほどNHKの小さな旅でも放送された、新しい高山駅に飾られる屋台(山車)の作業の真っ最中である。

 昨日の皆さん方は御参りがなかったが、今度Img_5369は、お東の別院の僧侶が御参りくださった。お寺のお世話役をされている同人が、地域の僧侶や総代の会合の時に、ご縁のありそうな僧侶に、思い切ってお声をかけたという。あれ、逆だ。在家の方が、僧侶の方を聞法にお誘いするとは。でも、そのご縁でお参りくださったのは、ちょっとドキドキしなImg_5381がらも、うれしかった。
 後で分かったが、父の書物も読んだこともあり、華光のご縁と知ってのことだった。しかも、自分のことを開Img_5382いていろいろとお話くださったのがうれしかった。

 道を求めておられる方は、どこにでもおられるということだ。

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公民館での高山支部法座

Img_5361  いつもは同人宅での支部法座だが、今回は、都合で、金曜~土曜の法座にしてもらった。平日であり、初日は地域の公民館が会場となる。おかげで、お世話役の方が、近所のお友達にも広くお声をかけてくださって、ご近所の方も大勢お参りくださった。正直、華光のご法座では珍しいことだ。どこかで、難しいとか、なかなか伝わらないなどと慮って、近所の方に声が遠慮がちになってしまう。

 Img_5359法話は、かみ砕いてお伝えしたが、どうも説明風のお話になってしまった。一般の方には、死者や先祖を供養したり、「死んだら誰もが仏だ」という仏教やお経のイメージが根強いので、それは本来の仏教ではないことを、『仏説阿弥陀経』を通してお伝えしたかった。阿弥陀様の願いを、私ひとりのために聞くという、それをは言葉にすれば単純だか、そのシンプルのことが、私の問題として聴聞が始まるには、一朝一夕のお育てでいかないことを実感さられる。メモをとりながら聴いてくださった方には、「しっかりこれからいろいろな教えを勉強させてらもいます」という方もあった。
 
 しかし、動機はどうであれ、こうして多くの方が御参りくださり、共にご聴聞し、一言でも、座談会で発言くださったことを喜ぼう。ご縁がないと、手は合わせてもらえないのだ。ましてや「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声に出してお念仏することすら、難しいことである。なぜ浄土真宗で、「南無阿弥陀仏」と称えるのか。なぜ、心ではなく、声に出すことが大切なのかを、簡単にだがお伝えさせていただき、共にお念仏もうさせていただいた。

 

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快適な暮らし

お盆参りが終わった。それにしても、今年のお盆は暑かった。連日、猛暑日が続き、日差しも強い。それが夕方には土砂降りにもなった。道中だけが雨で、目的地ではまったく降っていないということも。ほんとうに局地的なゲリラ豪雨だ。暑さといい、ゲリラ豪雨といい、極端な天気が続いている。これも温暖化の影響か。

 「暑い中、ご苦労さまです」とか、「雨でたいへんでしたね」とか、お声をおかけいただく。確かに、暑かったし、雨も強かったが、いずれも車中でのことだ。有り難いことに、暑さも、雨も、雷雨も、車に乗っていると平気である。しかも、どのお宅に窺っても、冷房があったり、扇風機があったり、冷たいものを出したりと、涼しくなる工夫をして迎えてくださる。

 少しでも楽になるには、また便利で効率よくなるための工夫にはぬかりはない。

 仏法は逆だけどね。

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「わたしの7+7」

   最後に御参りしたお宅は、ご夫婦揃って音楽好きだ。しかも僕と、共通でて知り合いのミュージシャンがいる。福島の子供たらの支援のために、毎夏、京都にフクシマの子供たちを招く活動もされている。その集いに、ベートルズこと、渡辺智江(ベ-)ちゃんにも歌ってもらっているというのだ。ぼくも、華光会館の日曜礼拝で、二度、彼女の歌声を聴いている。

 「このCD聴かれましたか。いいですよ。」と出されたのは、ベーちゃんの14年ぶりの新譜である。「差し上げます」と言ってくださったが、少しでも売り上げに貢献したいので、購入することにした。新譜CDは、14年ぶりということで、「わたしの7+7」というタイトルになっている。彼女の人柄が滲み出るような、素朴な中にも、暖かい歌声である。

 誰もが知る童謡も入っているが、半分以上は、彼女のオリジナルだ。、「オオヤコーヒー」という歌がある。ぼくが、彼女と知り合ったカフェで、いつもおいしいコーヒーを淹れてくれていた。コーヒー豆の焙煎家のことを歌っているのが、ちょっと嬉しかった。ラストは、ボーナトッラクで、彼女の大ヒット曲、「愛のうた」のブライベート・バージョン。14年前のことで、音程が大きく外れることがなんともご愛嬌で面白かった。

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知らぬが凡夫?

 恒例のM家での盆参法座。京都支部法座も兼ねている。『仏説阿弥陀経』のお勤めする以外は、いつもの支部法座と同じである。ご法話も、その『仏説阿弥陀経』のお心をいただいた。概観というより、極楽浄土の世界と、その主である無量寿、無量光のゆえに阿弥陀様と言われる所以をお尋ねした。信仰座談会も、いつもどうり。率直に、自分の信心の不審をお話くださる方があった。もしもっと確かものを得ようというのなら、それは方向違いだ。「聞いた」「分かった」に留まることなく、引き破って聞く姿勢をいただいたことが、有り難いのである。

Img_5351 法座が終わっても、大半の方が残って、懇親会。アルコールも振舞える。その席でも、座談会の続きとなるが、一段落してきたことろで、歌ごえ喫茶に代わる。例によって、ご主人がギターを奏で、奥さまが指揮される。懐かしいフォークソングを中心に何曲か歌ってお開きになった。

 ところが、数日後の話に驚いた。

 格好良くギターを弾くご主人の障子と外壁を隔ててImg_5352_4、すでに事故が起こっていたというのである。隣人の独居老人が、向こうの庭で、M家の壁にもたれるように亡くなっていたのがわかったのは、この3日後だ。ここの奥様が物干しから倒れている隣人の死体を発見されて、警察に通報。おかげで、何度も実況検分が行われる事態になったというだ。検死の結果、すでにこの頃には死亡されていたと推測されているとか。

 壁一枚を隔てて、リアルに生死があったにも関わらず、無明の凡夫にはそれが分からなくて、ただ呑気に歌っていたのだから、まさに迷いの真ん中にいるのである。

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盆法要

Img_5350_2 午前のお盆参りをすませて戻ると、お盆参りの合間を縫うように、石川から北陸同人の家族が来館された。夏休みを利用しての旅行に合間である。事務所はお盆休中で、連れ合いも帰省中だったので、充分なおもてなしはできなかったが、猛暑の中を小さな子供たちの手を引いて来てくださったのが、うれしかった。日頃、大人だけの生活ので、小さな子供たちか来るだけでも、明るい雰囲気になる。ただ暑さで、子供たちは疲れ気味。道場で御参りをしてもらって、称名念仏。この小さな子供たちにも、お念仏が届くことが、ご両親の願いでもある。

 夕方からは、2つ家族の方が集まって、華光会館でのお盆の御参り。小学校のお子さんが交じっている。ゆっくり『阿弥陀経』お勤めし、和讃と「其仏本願力、聞名欲往生~」の往觀偈がお盆の回向文。『阿弥陀経』のことを少し聞いていただく。反応は、「?」ではあったが、これもまた気長にご縁を結んでいくかしないのだろう。

 そして、今日は、父の初盆も勤めさせていただいた。

 ぼくにとっても、子供のときから、お盆での父の思い出は深い。勤行を覚えたのも、小学生の時に初めて他人のおうちにお参りにいたのも、また、父から初めてご示談を受けたのも、みんなお盆のときであった。籐(竹のようなも)の下着をきて、汗だくで着替える姿が、思い出された。

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『日本で一番悪い奴ら』

 未解決の誘拐事件と人事権を巡る警察内部の問題を、広報官の目線でその葛藤を重厚に描いた『64(ロクヨン)』は、小説の中の話だった。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-0fa5.html

 一方、『日本で一番悪い奴ら』は、実際に起った日本の警察史上最大の不祥事を題材にした実録ドラマだ。ところが、ノンフィクションの『64』の重厚さに比べると、フィクションをもとにした本作は、タッチが軽い。旬の人気俳優が揃った登場人物もみな軽快で、事が重大であればあるほど、実はコメディに見えてくるのが妙なものだ。

 北海道道警で起きた稲葉事件がもとになっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 当時は、現場では警察と裏社会が持ちつ持たれつの関係であったことが分かる。麻薬取引、拳銃の摘発、暴力団の抗争、すべてS(スパイ)と呼ばれる警察協力者がいなければ、大型の摘発などできないのだ。Sもまた警察の情報を得て、組織や裏社会で力をもっていくのである。目的のための逸脱行為がエスカレートしながらも、上司もその成果を第一に、不正を黙認し、警察のエースとして出世(成り上がる)していくプロセスが痛快だ。当然、裏社会とはますます緊密になり、酒に、女に、金に溺れ、感覚が麻痺していく姿が面白くも、哀れである。

 上層部らかより大きな成果を求められて、おとり捜査や泳がせ捜査が常態化。とうとう税関と組んで海外からの麻薬・覚醒剤の密輸を幇助する見返りに、最大規模の拳銃密輸を摘発する裏取引を実行するが、事態は最悪の結末を迎えていく。

 とうとう逮捕されて、実刑を受ける。事情聴取されていた元直属の上司は自殺、共犯者(S)もまた拘置所内で獄中自殺。実刑判決をうけた服役後、事件の全貌を告発するも、警察ぐるみでの組織犯罪とは認定されないまま、一個人、一部の暴走として処理されていくのである。

 しかし、悪いことをやった人間の背景には、巨悪の闇がある。厳しいノルマの点数主義、成果主義、そして実力主義の中で、正義は、巨大組織を守る論理そのものになり、その目的のために、手段(たとえ悪であっても)が正当化されていくのであろう。実録かどうか以上に、エンターテメントの映画としても面白かった。まさに「事実は小説より奇なり」である。

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猛暑のお盆参り

 猛暑の中、お盆参りが始まった。例年は、12日以降からだが、今年は11日になったのは、山の日という祝日が始まったからだ。といっても、休日の方ばかりではなく、まだ浸透していない。11日からお盆が始まる代わりに、例年より早くお盆休みが終わるという方もおられた妙な祝日。お盆参りも3日間で終わらせたかったが、15日までの5日間の予定となった。

 高速道路は大渋滞の様子だが、日頃渋滞する国道はガラガラで、かなりスムーズに移動できた。今日は、宇治や伏見を中心にした地域を回る。

 家族の方と、『仏説阿弥陀経』をお勤めし、「摂取して捨てざれば、阿弥陀となづけたてまつる」のご和讃をいただく。ご法話は短いものだが、お盆の意義について、目連尊者の逸話である。浄土真宗の場合、先祖を迎えたり、追善供養のための行事ではない。古来より、「弥陀同体の証を開いたものが、娑婆に来て、餅飯等の供養を受ける要はなし。また、墜獄の罪人ならば仏力(本願力)以外には、供養の術なきゆえに、他宗の如き式を用いさるなりと心得べし」といわれている。
 では、なぜ真宗でもお盆を勤めるのか。遠く離れた子供たちも実家に戻る中で、亡き人のお盆を縁として、仏前にて勤行しお念仏もさせていただく大切な仏縁である。それで、家族の皆様も一緒に勤行し、ご法話も聞いていただく。結局、すべての法要は、わが身の聞法につながるのである。これが出来るのもお参りの軒数が少ないからではある。

 年に1度だけお会いする方もある。今年の冒頭の話題は、猛暑とオリンピックから入るとスムーズだ。近況をお尋ねすると、何も変わらぬようで、その周辺では、老・病・死の無常が、さまざまな形でのご催促がある。

 明日以降は軒数が少ないが、15日までお盆参りが続く。

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広島「真宗カウンセリング・ワークショップ」ご案内

今年も 「真宗カウンセリング・ワークショップ」(みみずくの会共催)を、以下の日程で開催します。

締切日過ぎましたが、まだ宿泊定員に余裕があります。興味のあるかたは、ぜひご参加ください。広実さんまで、お問い合わせください。

(案内)真宗カウンセリングワークショップは、法(南無阿弥陀仏)を根底においた人間中心のアプローチによるエンカウンター(出会い)グループです。このグループは、今、ここの人格的交流によって、新たな、自己との他者との法との出会いを実現していきます。具体的には、生きる上でのそれぞれの問題や苦しみや生きがいを、あるいは、真宗(南無阿弥陀仏)に関わる疑問や悩みや喜びを、今、ここに湧き出るままに語り合い、聞き合い、理解し合って、心の触れ合いを展開していきます。真宗とカウンセリングに深く学んでいる世話人も、グループのメンバーとして参加します。なお、今回は会場も新たに、宿泊費や参加費を値下げしました。ひとりでも多くの皆様にご参加いただきたく願っております。

★(日時) 8月29日(月)(13:00 受付)13:30 開始~8月31日(水)16:00 終了(2 泊3 日)

★(研修会場)アステールプラザ 広島市中区加古町4-17 Tel(082)244-8000
宿泊会場)広島市文化交流会館 広島市中区加古町3-3 Tel(082)243-8881

★(参加資格)関心を持たれる方なら、どなたでもご参加いただけますが、時間をかけてメンバーでグループを創造していくので、基本的に3日間参加可能な方。また、現在精神医療的援助や、心理療法等を受けている方は、担当医師やカウンセラーの承諾の上で、お申し込みください。

★(参加費)研修費16,000円(学生15,000円、会員14,000円)
                宿泊費11,000円(2泊・食事は各自でお願いします)

★(世話人) 増井  信 (真宗カウンセリング研究会事務局長)
    岩崎智寧(真宗カウンセリング研究会会員・広島カウンセリング学習会事務局)
 アドバイザー 松岡宗淳(真宗カウンセリング研究会代表)

★(問合先) 広実(ひろざね)智子
 〒731-0152 広島市安佐南区毘沙門台1-17-4
  Tel(082)879-9482(みみずくの会)

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Img_5320 連日、暑い。猛暑日が連続して起こる。今日も、晴天だ。

 久しぶりに海に行きたくなった。今年もプールでは泳いでいるが、海では泳いでいない。前日に、海に泳ぎに行くことになった。

Img_5336 日本海は、敦賀の気比の松原海水浴場へ。名前の通り、松原が続いている。

Img_5333 海で泳ぐのは3年ぶりだ。

 海からの風が心地よかった。

 リフレッシュして、お盆参りに備えよう。

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8月の聖典講座~五悪段(2)~

 聖典講座は、『大経』下巻の「釈尊の勧誡」に入って、五悪段の2回目である。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-0370.html

   釈尊が大悲のお心で、仏眼に映る痛ましい人間生活の現実を説かれた段である。面白いというのは妙な表現だが、凡夫(私)の悪の実相が、微に入れ細を穿つた教説で明かにされていく。ただただ頭を垂れて頂くしかない。
 
 五悪段を、親鸞聖人は引用されてない。単なる勧善懲悪の道徳生活、(儒教)に留まるのをおそれ懸念されたとの説もある。また、現存の梵本(サンスクリット本)、西蔵訳(チベット訳)、また『如来会』『荘厳経』には相当箇所はなく、初期の『大経』にのみ相当文がある。初期『大経』を参照して、翻訳の時点で、当時の中国的要素(儒学・老荘・神仙思想-たとえば「自然」を多様など)を加味し、人間悪の徹底した追求と因果応報、廃悪修善を強調して、涅槃の獲得を教説したものでないかとの推測されてもいる。

 確かにそういう一面もあろう。しかに、単に信後の世俗生活(俗諦)の誡めとして味わうだけでなく、本願を頂くべき者、そのお目当ての機、本願成就文でいう「諸有衆生」の実相であり、その内容はまさに唯除の私の姿でもある。釈尊が、大悲のお心で仏眼に映った虚仮轉倒の私の姿そのものを明示してくださったのである。親鸞聖人が引用されなかったのは、如来の他力の働きならともかく、私の痛ましい実相をわざわさ経文から引用する必要がなかったからで、勧善懲悪に留まるのをおそれての懸念はなかったのでなはいか。現に、聖人にはここの文章に影響された大切な文言が存在しているのである。
(参照)第二悪「心口各異、言念無実」
     第四悪「二親に孝せず、師長を軽慢し、朋友に信なくして、誠実を得がたし」
   →『唯信鈔文意』(広本)
    第二悪「主上あきらかならずして、臣下を任用すれば(略)忿りて怨結をなす」
   →「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」 『化身土巻』後序

  ここは釈尊のお説教(お小言)の場面である。悪を誡めて、善を勧められるは、釈尊の当面の教説からみて当然のことだ。廃悪修善は、釈尊の教えの表看板。だから、五悪の姿を示して、五悪によって現世で受ける華報(けほう)を五痛で、来世で受ける果報(かほう)五焼として明示され、その悪を厭うて五善を説くことを勧めておられる。それにしても、痛ましい現実に重なるように、凡夫をわが子をいとおしむ以上に願う、如来(釈尊)の大悲のお心がまた尊い。さらに、凡夫は、仏のみよく知りたまう真実の教説に耳を傾けず、釈尊亡き後には、ますます五悪で世が濁ることまで見抜ききっておられるのでだ。
 だからこそ、末法の世、極悪邪見の衆生には、弥陀の名号以外のお救いはないのである。この後には、胎化得失段で仏智を疑う罪咎を教示され、さらに、弥勒菩薩に、六字名号の御利益を述べて、末法に唯一の光となるこの弥陀の本願を説かれた『大経』のみ教えを託されるのである。これは、来月以降でそのお心をいただいていくのである。

 仏のたまはく、「われなんぢら諸天・人民を哀愍(あいみん)すること、父母の子を念ふよりもはなはだし。いまわれこの世間において仏となり、五悪を降化し、五痛を消除し、五焼を絶滅して、善をもつて悪を攻め、生死の苦を抜いて五徳を獲しめ、無為の安きに昇らしむ。われ世を去りてのち、経道やうやく滅し、人民諂偽にしてまた衆悪をなし、五痛・五焼還りて前の法のごとく、久しくして後にうたた劇しからんこと、ことごとく説くべからず。われただなんぢがために略してこれをいふのみ」と。                (仏説無量寿経・下巻)

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8月の聖典講座~大命まさに終わらんとして~

Img_5347 例年、8月の聖典講座は夏休みだが、今年は、父の一周忌の命日に重なったので開催した。法要を営めば、日頃、聖典講座に無縁の方もお参りくださるかもとの淡い目論みもあった。法要の準備をし、駐車場も空け、お菓子も多めに用意した。が、そんな凡夫の浅はかな計らいは、脆くも崩れるのである。ほぼ7月のわが家の法要にお参りくださった、聖典講座の常連さんばかりだ。目新しい方は初めての方だけで、 先生の一周忌くらいでは、華光同人は動かれないのである。その潔さに、逆に感心させられつつも、計算違いにがっかり。凡夫の浅知恵で計らってもダメということ。

 しかも聖典講座は、五悪段の第四、第五と、釈尊の教説の部分である。特に、第五段は、悟朗先生の「後生の一大事」のご説法で、常にご讃題にあげられていたところだったので、その点でも有り難かった。揮毫された書も飾らせてもらった。

「大命まさに終らんとするに悔懼(けく)こもごも至る。あらかじめ善を修せずして、窮まるに臨んでまさに悔ゆ。これを後に悔ゆともまさになんぞ及ばんや。天地のあひだに五道〔の輪廻の道理〕分明なり。恢廓窈窕(かいかくようちょう)として浩々(こうこう)茫々(もうもう)たり。善悪報応(ほうおう)し、禍福あひ承けて、身みづからこれに当る。たれも代るものなし。数(ことわり)の自然(じねん)なり。その所行に応じて、殃咎(おうぐ)、命を追うて、縦捨(じゅうしゃ)を得ることなし。悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。たれかよく知るものぞ、独り仏の知りたまふのみ。教語開示すれども信用するものは少なし。生死休まず、悪道絶えず。かくのごときの世人、つぶさに〔述べ〕尽すべきこと難し。ゆゑに自然に三塗の無量の苦悩あり。そのなかに展転して世々に劫を累ね、出づる期あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。」(仏説無量寿経・下巻)

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南国の香り

 Img_5306沖縄の古い同人が、マンゴーを贈ってくださる。
   まだ、僕が小学校に上がる前、会館に住み込みで求道されていた。父も、その後、沖縄布教もしている。ご縁の深い方だ。それが、少し前に、本山の研修で、真宗カウンセリングの講師をしている時に、不思議なご縁が生まれた。

 マンゴーは、南国の果物独特の甘い香りと、濃厚な甘味が口に広がた。
Img_5314 それにしても京都も暑い。連日の37度、38度と猛暑日が続き、路上の温度計は40度を指している。夕方には、スコールのように、短時間、滝のような大雨が降ったりもする。もともと蒸Img_8948し暑いところだが、温暖化が進んで、まるで南国のような気候になっている。

 そういえば、昨年の今日も猛暑だった。やはり40度の猛暑日に、父は倒れた。そして、炎天下の火葬場で、父の最期を見送った。
 あれからまる1年を迎える。

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物騒

 朝、会館の前が騒然としている。まもなくパトカーも来る。
 
 ごく近くでひったくりがあり、10名近い警察官や刑事が来て、会館の前で取り押さえられた犯人(容疑者)や被害者の取り調べが続いているのだ。数ケ月前にも、この前の路上で、ピアノ教室の生徒さんのお母さんが、ひったくりにあった。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-2bdc.html

 今回は、自転車のおじいさんの前カゴからカバンをひったくった犯人が会館の玄関のところで取り押さえられたというのだ。

Img_5307_2 会館の敷地内で事情聴取が行われているので、事務所にいるだけでも、警察と犯人、警察と被害者のやりとりが聞こえてくる。犯人は観念したのか柔順で、むしろ被害者の方が、興奮気味でまくし立てていた。「○時○分、窃盗容疑で、現行犯逮捕します」の声もはっきりと。

 先日の事件と同一犯かどうかは分からない。こう白昼堂々と立て続けにおこると、なんとなく物騒な感じがする。

 またまた、会館の戸締りが強化されたのはいうまでもない。

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四十八願のこころ(11)第二十願文

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係(か)け、もろもろの徳本を植えて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂(かすい)せずは、正覚を取らじ。」(第二十願・植諸徳本(じきしょとくほん)の願)

「わたし法蔵が仏になるとき、全宇宙の生きとし生きる者が、わたしの名を聞き、わたしの国に思いをめぐらし、さまざまな功徳の本である南無阿弥陀仏を称えて功徳を積み、心からその功徳で、わたしの国に生まれたいと願うなら、その願いをきって果たし遂げましょう。もしそうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。」

 阿弥陀様は、すべての人々を浄土に生まれさせたいと、私たちがお浄土に生まれるための三つの願をご用意くださいました。

 まず、第十八願こそがご本願です。極重悪人の私をそのまま救おうという大悲のお心から生まれました。この第十八願一つで、すべての人を救おうという他力念仏の道です。しかし、自分が善人で、力量も、智慧もあると自惚れている者のために、第十九願のもろもろの善根功徳を修する自力修行の道も用意くださいました。

 そして、第二十願も、善人のための自力修行の道です。第十九願との違いは、その行です。「もろもろの徳本を植える」とは、さまざまな功徳を積む中でも、功徳の根本である「南無阿弥陀仏」のお名号を称えることが、もっとも功徳があると信じ、自分の力を頼った自力念仏だと、親鸞様は言われました。行は、阿弥陀様の成就された南無阿弥陀仏を称えながら、その心は、自分を頼りにした自力心です。そして、自分で作った功徳を、私の方から阿弥陀様にふり向けて、浄土に生まれようと願うわけです。つまりは、阿弥陀様を信じているようで、実は自分を一番信じ、頼りにする自力念仏での往生です。その心境は「手を下げて 頭を下げぬ 蛙かな」です。

 しかし、阿弥陀様の大悲は、自惚れ者の自力念仏者にも注がれています。「その願いもきって果たし遂げましょう」と、わざわざ誓われたので、果遂の誓いとも言われるのです。これも自力念仏者も、必ず真実の第十八願に転入させ、浄土に生まれさせてみせるぞという、阿弥陀様の深い大悲心のたまものにほかならないのです。

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第40回聞法旅行のお誘い~京都の親鸞聖人ご旧跡~

 聞法旅行は、これまで2泊3日で、50年ほど前から始まっています。延期や中止になった年もあるのて、今年で40回目です。この2年間は、開催することが出来ずにいましたが、今年は1泊2日の日程で、京都の親鸞聖人の御旧跡を巡ることにしました。

 京都の御旧跡は、第3回目の聞法旅行(当時は聖跡巡拝の旅)で、ご聖人の旧跡を巡って以来、今回が3度目ですが、改めて同人の皆様と共に、聖人のみ跡を慕う旅出ることになりました。 

 初日は、親鸞聖人ご誕生の地・日野の里(法界寺・誕生院)を皮切りに、お得度の地・青蓮院、本願寺故地・崇泰院、お屋敷跡の岡崎別院を巡り、京都駅前の宿舎に入ります。恒例の宴会も楽しみます。

 2日目は、宿舎でご法話を拝聴し、ご修行の地・比叡山の東塔(根本中堂)・西塔(常行堂)・横川の横川中堂と、今年一千回大遠忌の源信僧都ゆかりの恵心院に参詣します。そして、ご参籠の地・六角堂で旅を終えます。時間が許せば、御池中学校前のご終焉の地にも立ち寄ろうと思います。

毎年、例年、充実した内容に、参加者の皆様から喜びの声を頂戴しています。これまでご縁のなかった皆様にも、参加していただきやすい1泊2日の日程で、バス移動も短時間で楽です。お念仏の旅をご一緒しましょう。合掌

 期 間  平成28年9月17日(土)9時50分(集合)~18日(日)16時30分(解散)

 詳細は、華光会HPでご確認ください。

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2016/detail/09/monpou.ryoko2016-9.htm

 なお、〆切は、8月25日(木)ですが、バスの定員になり次第、先着順で〆きりますので、お早めにお申し出ください。

 

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仏の子供大会

  今年も、参加者が都合で、2泊3日で短縮開催された仏の子供大会。会場も、また華光会館である。もともと3泊4日の日程でプログラムされてものを、3日間に短縮するので、少々無理がある。追ハイは中止したが、水泳の後で、すぐにスライドがあり、夜には、室内ファイヤーでスタンツと、日程がタイトになってくる。第一、ご法の上でも、スライドが夕方だったり、分級が2時間あるのが最終日だけだったりと、随分、駆け足で、消化不良という感じがしてならない。

 それでも、子供たちはほんとうに楽しそうだった。子供だけはない。保護者の皆さん(今年はおばあちゃんが多かったが)も、童心に帰って、孫と一緒に、カラダを張って競い合い、またスタツでは、いま流行りのポケモンGOにあやかって、「ケコウGOロー」で、それぞれ悟朗先生から聞いた教えを、時に愉快に、時に涙声でお話しくださった。

 ぼくも、会計の他に、開会式の法話、水泳の引率、その後のスライド(貧者の一燈と、無間地獄)、そして、おつとめの作法に、ゲームも3つほど担当して、久しぶりに疲れた。ぼくが活躍しなければはならないようでは、かなり課題も多い子供大会である。班活動が充分ではないのと、先生方との間で、充分な打ち合わせがなされず、全体的には反省点も多かったと思う。が、初めての子供たちも含めて、子供たちにとっては、大満足の集いになったのではないだろうか。ぜひ、今回の反省を生かして、来年は、しっかり3泊4日の日程での子供大会を開催したいものである。

 お手伝いの先生方、保護者の皆さん、そして、ご援助くださった同人の皆さんに厚く御礼申し上げます。

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