8月の聖典講座~五悪段(2)~
聖典講座は、『大経』下巻の「釈尊の勧誡」に入って、五悪段の2回目である。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-0370.html
釈尊が大悲のお心で、仏眼に映る痛ましい人間生活の現実を説かれた段である。面白いというのは妙な表現だが、凡夫(私)の悪の実相が、微に入れ細を穿つた教説で明かにされていく。ただただ頭を垂れて頂くしかない。
五悪段を、親鸞聖人は引用されてない。単なる勧善懲悪の道徳生活、(儒教)に留まるのをおそれ懸念されたとの説もある。また、現存の梵本(サンスクリット本)、西蔵訳(チベット訳)、また『如来会』『荘厳経』には相当箇所はなく、初期の『大経』にのみ相当文がある。初期『大経』を参照して、翻訳の時点で、当時の中国的要素(儒学・老荘・神仙思想-たとえば「自然」を多様など)を加味し、人間悪の徹底した追求と因果応報、廃悪修善を強調して、涅槃の獲得を教説したものでないかとの推測されてもいる。
確かにそういう一面もあろう。しかに、単に信後の世俗生活(俗諦)の誡めとして味わうだけでなく、本願を頂くべき者、そのお目当ての機、本願成就文でいう「諸有衆生」の実相であり、その内容はまさに唯除の私の姿でもある。釈尊が、大悲のお心で仏眼に映った虚仮轉倒の私の姿そのものを明示してくださったのである。親鸞聖人が引用されなかったのは、如来の他力の働きならともかく、私の痛ましい実相をわざわさ経文から引用する必要がなかったからで、勧善懲悪に留まるのをおそれての懸念はなかったのでなはいか。現に、聖人にはここの文章に影響された大切な文言が存在しているのである。
(参照)第二悪「心口各異、言念無実」
第四悪「二親に孝せず、師長を軽慢し、朋友に信なくして、誠実を得がたし」
→『唯信鈔文意』(広本)
第二悪「主上あきらかならずして、臣下を任用すれば(略)忿りて怨結をなす」
→「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」 『化身土巻』後序
ここは釈尊のお説教(お小言)の場面である。悪を誡めて、善を勧められるは、釈尊の当面の教説からみて当然のことだ。廃悪修善は、釈尊の教えの表看板。だから、五悪の姿を示して、五悪によって現世で受ける華報(けほう)を五痛で、来世で受ける果報(かほう)五焼として明示され、その悪を厭うて五善を説くことを勧めておられる。それにしても、痛ましい現実に重なるように、凡夫をわが子をいとおしむ以上に願う、如来(釈尊)の大悲のお心がまた尊い。さらに、凡夫は、仏のみよく知りたまう真実の教説に耳を傾けず、釈尊亡き後には、ますます五悪で世が濁ることまで見抜ききっておられるのでだ。
だからこそ、末法の世、極悪邪見の衆生には、弥陀の名号以外のお救いはないのである。この後には、胎化得失段で仏智を疑う罪咎を教示され、さらに、弥勒菩薩に、六字名号の御利益を述べて、末法に唯一の光となるこの弥陀の本願を説かれた『大経』のみ教えを託されるのである。これは、来月以降でそのお心をいただいていくのである。
仏のたまはく、「われなんぢら諸天・人民を哀愍(あいみん)すること、父母の子を念ふよりもはなはだし。いまわれこの世間において仏となり、五悪を降化し、五痛を消除し、五焼を絶滅して、善をもつて悪を攻め、生死の苦を抜いて五徳を獲しめ、無為の安きに昇らしむ。われ世を去りてのち、経道やうやく滅し、人民諂偽にしてまた衆悪をなし、五痛・五焼還りて前の法のごとく、久しくして後にうたた劇しからんこと、ことごとく説くべからず。われただなんぢがために略してこれをいふのみ」と。 (仏説無量寿経・下巻)
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