四十八願のこころ(11)第二十願文
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係(か)け、もろもろの徳本を植えて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂(かすい)せずは、正覚を取らじ。」(第二十願・植諸徳本(じきしょとくほん)の願)
「わたし法蔵が仏になるとき、全宇宙の生きとし生きる者が、わたしの名を聞き、わたしの国に思いをめぐらし、さまざまな功徳の本である南無阿弥陀仏を称えて功徳を積み、心からその功徳で、わたしの国に生まれたいと願うなら、その願いをきって果たし遂げましょう。もしそうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。」
阿弥陀様は、すべての人々を浄土に生まれさせたいと、私たちがお浄土に生まれるための三つの願をご用意くださいました。
まず、第十八願こそがご本願です。極重悪人の私をそのまま救おうという大悲のお心から生まれました。この第十八願一つで、すべての人を救おうという他力念仏の道です。しかし、自分が善人で、力量も、智慧もあると自惚れている者のために、第十九願のもろもろの善根功徳を修する自力修行の道も用意くださいました。
そして、第二十願も、善人のための自力修行の道です。第十九願との違いは、その行です。「もろもろの徳本を植える」とは、さまざまな功徳を積む中でも、功徳の根本である「南無阿弥陀仏」のお名号を称えることが、もっとも功徳があると信じ、自分の力を頼った自力念仏だと、親鸞様は言われました。行は、阿弥陀様の成就された南無阿弥陀仏を称えながら、その心は、自分を頼りにした自力心です。そして、自分で作った功徳を、私の方から阿弥陀様にふり向けて、浄土に生まれようと願うわけです。つまりは、阿弥陀様を信じているようで、実は自分を一番信じ、頼りにする自力念仏での往生です。その心境は「手を下げて 頭を下げぬ 蛙かな」です。
しかし、阿弥陀様の大悲は、自惚れ者の自力念仏者にも注がれています。「その願いもきって果たし遂げましょう」と、わざわざ誓われたので、果遂の誓いとも言われるのです。これも自力念仏者も、必ず真実の第十八願に転入させ、浄土に生まれさせてみせるぞという、阿弥陀様の深い大悲心のたまものにほかならないのです。
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