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「各発」と「共発」

 一月はカンボジア旅行、四月は熊本地震で急遽中止になったので、約10ヶ月ぶりの九州での法座である。

 昼間は、福岡天神のY会計事務所、夜は、博多しゃぶしゃぶ「あり田」での懇親会、そして翌日は、ご自宅での法座と、盛り沢山の内容。御参りの方も、それぞれに違っていたが、娘さんたちが通して参加くださったのが、うれしかった。

 一座は、Y先生のご法話があっり、ぼくは二座だけだったので、どちらも長めに話した。
 メーンは、「大悲の呼び聲」を解説。「大経」の歌とあるので、大経のお心を歌っておられる。普通に歌っても、20分以上かかる。大経なので、難しい言葉や説明が必要な箇所もある。普段、歌う時は、感情的な雰囲気で有り難がっているが、教義的な押さえが必要なところもある。如何せん長い。昼座をたっぴりかけて解説したら、聞いておられる皆さんも、ずいぶんお疲れで、よく休んでおられた。このあたりは次ぎへの課題にしたい。

 もうひとつは、「くもの糸」の分かち合いと、「帰三宝偈」のご法話である。最近、ここをよく味わっている。
 釈尊とカンダタの関係を、聖道門の自力の修行と菩提心に例えて味わう。それを、「帰三宝偈」の冒頭の「各発無上心」(自力の菩提心)と、「共発金剛志」(他力の菩提心)で味わう。「各発」-つまり各自、各々の力で起してもなかなか徹底できないが、「共発」-みなとにも発する。お正信偈なら「共同心」となり、回向句なら、「同発菩提心」となるところである。 
 では、共にとは、誰と共になのか。それは、阿弥陀様と「共」にである。だから阿弥陀様と共にだから、一切衆生と「共」にへと展開していくのである。他力ならばこそ、カンダタのように、各自が竪(たて)に、竪(たて)と修行をしていく必要がない。生死(迷い・四流)をたちどころに、「横」に超え、断たせていただくのである。

「道俗時衆等
 各発無上心
 生死甚難厭
 仏法復難欣」

「共発金剛志
 横超断四流」

 

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