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浄土五祖伝を読む~善導禅師(1)~

 浄土五祖伝の輪読講義も、今月から善導さまに入る。ご講師が交代し、はっきりした力強い声で、内容もとても分かりやすかった。同じテキストでも、ここまで講師によって違うのかと思った。

 親鸞聖人は「善導大師」と尊称されているので、真宗者は「大師」で慣れているが、法然様は「善導和尚」と尊称され、五祖伝では「善導禅師」と尊称されている。細かなことだが、浄土宗で「善導大師」と尊称が統一されるのは江戸期に入った頃だというのである。当たり前のように思っていたが、これもまた所変わればである。

 浄土教最大のスーパースターの登場。「浄土五祖伝」には、六伝が掲載されているが、未掲載の伝記もあるのでそれにも触れていくという。今月は、『続高僧伝』と『瑞應伝』を読んだ。

 興味深かったのは『続高僧伝』の記述である。
  『続高僧伝』が記述された時点で、善導さまはまだ在世中。道綽さまも、在世中だったが、すでに奇瑞を示す高僧として高評価を受けている。ところが、スーパースターの善導さまも、この時点では評価は高くない。善導さまの項目は、「会通」という高僧の「伝付伝」、つまり付け足しとして出てくる。しかも、その項目は「遺身篇」である。これが、後々、遺身篇で登場する逸話が一人歩きし、善導さまが浄土を願って自死されたというエピソードなどへと展開したりするである。

 実は、善導さまの生誕や出生地も、正確には分かっていない。ご往生の年代と、年齢などから、大業九(613)年と推測される。道綽さまが仏教弾圧の武帝の時代あったのに対して、善導さまは、生まれながら、仏教が守護された隋の時代、さらに唐時代を生きられるのである。

 『続高僧伝』の記述を窺っていくと、

(1)出身不明で、終南山の僧である。
(2)天下を周遊し、仏道を求めていた。
(3)道綽禅師に出会い、浄土教(念仏、弥陀の浄業を行じた)に帰依。
(4)その後、都(長安)に入る。
(5)『阿弥陀経』を書写すること数万巻。多くの男女が師事し、光明寺で説法。
(6)a教化を受けた信者が、「仏名を念じることで往生が定まるか、どうか」と問い、「定んで生ぜん」と答えると、
   bその信者は、礼拝し、「南無阿弥陀仏」と称えながら、門前の柳の木から、合掌して、西向って逆さまに身投げする(捨身)。
(7)役所までその噂が広がる。

というものである。善導さまが捨身されたのではなく、信者が南無阿弥陀仏と称え浄土願生して身投げするという事件が、ちょうど『続高僧伝』の会通伝を執筆中に起こり、ここに伝付伝-付け足しとして、事件簿が記載されたと推測されているのである。

 ところが、善導さま没後、100年後ぐらい後に顕された『瑞應伝』の記述を窺うと、

(1)泗洲(安徽省)出身で、朱氏。
(2)幼少から浄土曼陀羅を観て願生。
(3)開律師のもとで具足戒を受け、『観経』に出会って、浄土門に入る。
(4)道綽禅師に出会う。
(5)善導が道綽に往生決定を請い、蓮華行道の答えを得る。(※)
(6)自らを卑下し托鉢行を怠らず、沙弥からも礼を受けなかった。
(7)『阿弥陀経』を書写すること十万巻。『観経変相図』の図画・寺院修復に尽力。

というふうに詳しくなっていくる。『阿弥陀経』書写一つでも、数万から十万巻ともらえてくるのである。既に、『観経』に出会ってから、道綽さまに師事するというのである。

また、(5)の※だが、同じ『瑞應伝』の道綽さまの項目では、師匠である道綽からが善導さまに自らの浄土往生の可否を問うているが、同じ書物でありながら、ここでは、師匠の道綽さまが善導さまに問うという形になっており、この点では整合性が保たれないないように思われる。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-6036.html

 善導さまの伝記は捉えどころがないが、逆にいうとそれだけ興味深いものである。特に、この後、ますます神聖化(仏格化)をとげ、阿弥陀仏の化身だとまで言われるようになる。では、伝記間で何が共通し、より史実に近いのか、どんなプロセス、時代を経て仏格化されていくのかなど、大いに興味のあるところである。

 面白かったです。

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