7月の華光誌輪読法座より
「腹が立ったり、妬んだり、欲深かったりということは分かるけれど、地獄行きなどの深重の罪などは、どうしても思えません」。
確かにその通りだ。仏法を聞かせていただいたおかげで、少しわが身を知らされたのだが、所詮、無明に覆われている。実は、そこを教えていただくだけでも充分聞かせていただているのだが、地獄行きという切実な実感がないことが問題になっているのだろう。
ところで、今回読んだ巻頭言にもあったが、今年千回忌を迎えた源信僧都は、自らを「頑魯の者」と仰っている。また、智慧第一と称賛された法然聖人も、自らを「愚痴の法然房」とか「貧道」と仰った。
善導さまは、大心海から化現された御方だと仰がれるのい、その御方が、自身は「現にこれ罪悪生死の凡夫(現在)、昿劫よりこのかた、常に没し、常に流転して(過去)、出離の縁あることなし(未来)」という身だと、決定して深く信じておられるのである。
さらに、親鸞様は、「愚禿」と名告られ、「極重悪人」「煩悩具足」「煩悩熾盛」「蛇蠍のごとし」「欲もおおき妬み、嫉むこころがひまがぐて、臨終まで切れない」とか、「悲しきかな」の歎きになるなど、きりがないほど「地獄一定」の自己を徹底的に聞いておられる。
七高僧と言っても自分よりちょっと上等な程度だと思っているが、決してそうではない。みな、私達泥凡夫と比べられぬほどの高僧方だ。戒律を保たれた清僧であり、たいへんな修行を行い、比類なき功徳を積まれた聖者方なのである。
ではなぜ、ご自身をそこまで罪深い、愚者だと内省できたのか。
それは、人間の力ではなく、阿弥陀様のまことのこころに出会われたからにほかならない。阿弥陀様の真実心、清浄心、そして大慈悲心に触れたならば、人間の智慧や才覚、善や行、慈悲などは、まったく虚仮不実であって、愚かな、悪人であると知らされるばかりである。
ましてや私が、自分の力で地獄行きが知れると思うのは大きな自惚れだ。自分のほんとうの姿は教えていただかなければ分からない。自分で知ったと自惚れている日常の罪悪さえも、実は、仏法を聴くまでは罪だとは、夢にも思わなかったはずだ。しかし、聞法のおかげで、忽然として、火の河(愼恚)水の河(貪欲)に代表される煩悩が渦巻いてることに気付かせていただけたのである。
私の地獄行きの姿を、無明の闇を、直視し続けて、その姿に光で照らしてくださっているのが、阿弥陀如来さまであるのなら、そのお光に遇わせていただくことが、地獄行きのほんとうの私に出遇ういただくことにほかならないのである。
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