大阪支部法座~大悲の呼び聲~
奈良県生駒市での大阪支部法座。目新しい方はなかったが、久しぶりの方が数名お参りくださる。
伊藤康善先生の「大悲の呼び聲」を細かく区切って解説しなから頂いた。
タイトルの「大悲」のお心を頂き、また「呼び聲」のお心も頂いた。これは大経のおこころを歌唱にのせて味わうのであるが、普通に歌って25分ほどかかる。それを細かく解説するので、2時間でも時間が足りず、最期はかなり急ぎ足になってしまった。
「大悲の呼び聲」を唱和して、その大悲のお心に、涙ぐむ方も多い。中には号泣念仏される方もある。しかし、その内容は、難しい言葉も出てくる。ほんとうに一言一言をどれだけ理解できているのだろう。たとえばである。
「どうして衆生を救おうか なんとう救ってやりたいと
無縁の慈悲を むねとして 慈顔しずかに衆生をば
観じませども あわれなや…」
とある。決して難しい言葉はない。しかし、この「無縁の慈悲をむねとして」とはどういう意味かと問われたら、ほとんどの方は理解されていなかった。普通に読めば、慈悲の縁がないようにとか、もしくは慈悲と無縁の私達をと理解される方もある。しかし、これには元があるのだ。
『観経』には、
「仏心とは大慈悲心なり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂取したふ。」
また『真仏土巻』には、
「慈悲に三縁あり。一つには、衆生縁、これは小悲なり。二つには、法縁、これは中悲なり。三つには、無縁、これは大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆえなればなり。」
と『華厳経』を引用れている。
1)衆生縁、小悲とは、世俗的な慈悲
2)法縁、中悲とは、声聞・縁覚が起こす慈
そして、3)無縁、大悲は、差別を離れた平等絶対の慈悲で、大乗の菩薩や仏が起こすものであるのだ。
ちなみに、慈悲とは「苦を除き楽を与えることである」ことである。だから、小悲である世俗的な慈悲でも、目の前で苦しんでいる人がいると、なんとかしてその苦を除き、楽を与えようと慈悲の心が起るというのである。しかし、親鸞様、そんな世俗の慈悲、人間として当たり前の慈悲すらこの私にはないと内省されている。ほんとうに「小慈小悲もなき身にて、衆生利益はおもふまじ」なのである。
しかし、そんな救われていく縁なき衆生に対しても、無差別平等の慈悲を起して、自ら同体の大悲でこの私のことをご自分のこととして、涙してくださるのが、大悲のお心なのである。そして、嬉々として地獄真っ逆様に落ちていく私を、どうして救うことが出来るのかと、考えに考え、修行に修行を重ねて、南無阿弥陀仏のお名号となり、それを廻向して、私を呼び覚まし、呼び起こし、そして浄土に呼び返し続けてくださっているのである。
そんな私にかけられた大悲の呼び聲をお聞かせに預かったならば、疑いなく、慮りなく、ただ「南無阿弥陀仏」とお返事申すしかないのである。
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