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広島支部法座~究極の依り所~

Img_4676 7月は、安芸高田市のY家での家庭法座である。例年、梅雨のこの時期に行う法座も、13年になるという。縁側を開放すると心地よい風が入ってくるのだが、今年はずいぶんと暑かった。それでも、トンボが家の中に入ってきたり、蓮を眺めながらのご法縁は気持ちがいい。

Img_4683 死生学の藤井美和先生の、私にとって大切なもの、そしてその大切なものと別れるワークを行う。1)目に見えて大切なもの、2)大切な人、3)目に見えないが大切なもの、4)大切にしている活動や時間の、4つをそれぞImg_4678れ4つ考えて、病や老の現実で次々と手放しお別れしていくもの。そのプロセスを6~7名ずつで分かち合いながらの進行。

 このワークをすると、最期に頼りになる大切なのもが、物資的なものより、身近な家族や生きがいとした集まり、目に見えない信念だっImg_4675_2たりするのが、よく分かる。今回は、連れ合いや子供たちを家族を残される方が多かった。そこで、そこをもう一歩踏み込んで味わってもらった。ほんとうに、妻子が不憫だと思うのなら、その家族と共にお念仏を喜ぶ身になっているのだろうか。それとも、生きていく上で役に立つから大切にしているのだろうか。または愛着だったり、依存だったりしないか。結局、「菩提の増上縁にあらず」なのか、ほんとうに浄土の歩みを共にしているのかは、よくよく味合わせて頂きたいところだ。

 今回は、ぼく自身もいろいろと気付かせていただいた。日頃は、目に見えるものや目の前の人ばかりを大切にしているが、実は、目にはみえないけれども、大切に受け継いだもの、頂いたものがたくさんあることを実感させていただく。

 ここに集う法友もそうだ。そしてそのご縁(法縁)もうそだ。そして、これまで頂いてきた種々のご教化、お育てもそうである。目に見える物質的ものは、努力して、時には争って奪っていくものである。しかし、ほんとうは無条件に与えてくださった種々のご恩徳の上に、僕自身は立たせてもらているのである。このからだがそうではないか。自分のものだと執着しているが、両親からいただき、慈愛によって育まれ、無数の命をいただいて、今日がある。自分のものと威張れるものは、何もないのだが、それを見誤って執着するので、思い通りならないから苦しみが起るのである。その他にも、表には顕れてこなくても、その底に無限の資源が眠っていることに気付かせてもらった。おかげで、最近、華光同人の動向にいろいろと煩わされることが多かったのだが、改めて、大切なものを教えていただいて、力をもらう気がしたのである。

 結局、その究極にあるのが、他力廻向の南無阿弥陀仏のお名号ではないか。いろいろと大切なものはある。しかし、唯一の畢竟(究極)の依り所である「念仏のみぞまこと」のおこころを改めていただいた。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし

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