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2016年7月の21件の記事

クライエント中心のカウンセリング

『育ち合う人間関係』の中から、「カウンセリングの手引き」を輪読している。

 第2回目。核心に入って、「カウンセリングとはどういうものか」という基本中の基本を押さえる。今回のクライエント中心のカウンセリング、そして基本的仮説としての四項目を学んだ。箇条書きにすると、

1、人間は誰でも成長力をもっている。
2、知的な面より、感情的な面も重視する。
3、問題の解決より、個人の成長を目的とする。
4、現在の場面を重視し、過去は問わない。

となる。ただ並べるだけなら、なんの意味もない。これは、ロジャーズ自身が、膨大な臨床経験の中から打ち出した仮説であって、各々に深い意味合いがある。さらにそれを、西光先生がひとつひとつ言葉を選び、深い内容を、易しい言葉で分かりやすくお伝えしてくださている点にも、深く感銘した。このシンプルな基本的な仮説こそ、「クライエント(来談者)中心」というアプローチを考える基盤となる。特に1は、カウンセリング自身の人間観に深く関わる重要なポイントだ。

 いちいちに思うところがあったが、仮説の前にあった章に教えられた。

 クライエント中心のカウンセリングについて、カウンセリングとは、相談場面におけるカウンセラーとクライエントとの関係なので、すぐれたカウンセラーになるためには、クライエントとどのような関係をつくるのか。その関係のこそが問題である。その質とは、カウンセラーの技術ではなく、態度によって決定する。
 
 ロジャーズ以前のカウンセリングとは、クライエントの訴えや悩みをよく聞き、その原因を的確に診断し、これを除去するための方法熟達した専門家が、指示や助言すると信じられてきた。いや、いまもなお、そう信じられて、あるゆる場面で、そう実践されているといってもいい。ところが、ロジャーズは、「診断はかなり的確で、治療法を指示するところまでは出来ているが、その結果はどうか。必ずしも、本人自身がよくなっていない」という指摘をする。診断し、指示や助言がどれだけ専門的な権威でなされても、それに応じた治療があがらなければ、臨床としての意味はないという根本的な指摘するのだ。

 それは、あらゆる対人的場面、たとえば、親、教師、宗教家といって権威者が、子供、生徒、信者などに対して、「命令したり、禁止したり、訓戒したり、激励したり、説得したり、助言したり、説明したり、解釈したり、教示したりする」ことが、指導であり、正しいことだと微塵も疑っていない。しかし、ほんとうにそれが有益なのか。そのことを根底から疑問視したり、相手側に立ってその効果を考えたことがあるのか。自分の説得や教示に自己満足しているのに留まっていないのか。「あれだけ言ってやったのに聞かない」と腹を立てて、威圧的な態度を強めたり、相手を支配したり、操作しようとしていないか。または、言っても変わらない相手に、愛想を尽かしてあきらめてはいないかと。

 改めて、自分の対人的態度を見直させられた。学んできたつもりで、少し話を聞いただけで「この人は、こんな人」、「あの人には、こう関わって」と、診断し、助言や教示をしている現実の自分を大いに考えさせれた。
 
 学び、分かっているつもりだったが、ぜんぜん身についていない自分に気付かせていただいた。もう一度、原点に帰ってしっかりと学び、実践していこう。

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サクランボ盛り合わせ

  連れ合いは、6月と10月に北海道での旅公演を抱えていて、毎月、北海道に出張している。10月にある地元の深川市公演の打ち合わせを兼ねて、実家に立ち寄って、荷物とは別に大きな包みを抱えて帰ってきた。

 実家は、サクランボの収穫が終わる繁忙期である。京都に戻る娘のために、ギリギリまでサクランボを摘んでもたせてくれたのだ(;_;)。

 佐藤錦は終わって、壮年の集いに「南陽」を送ってくださったが、先日の福岡のY家法座にも大粒の南陽が送られてきた。Yさんも「こんな大きくて、甘いのは初めてだ」と、喜んでくださった。大玉のピンク色の南陽は、『さくらんぼの王様』ともいわれるのだとか。

 加えて、今回は、初めて観る品種もあった。
 ひとつは、「月山錦」という黄色サクランポである。黄色といっても、すでに熟して甘い。何でも、中国より導入した最新品種だそうだ。

 そしてもうひとつは、さらに大粒で、黒い。思わず「アメリカンチェリー?」と言ったら、連れ合いがすぐに訂正した。「アメリカンではなく、れっきとしたジャパニーズのチェリーだ」と。ネットにも同じネタで書かれていた。
http://kajuen.net/senboku/archives/279/comment-page-1
 「サミット」というから、北海道の洞爺湖サミットに合わせた品種なのだろう。

 どれも、質のよいものを入れてくれたのは、親の愛情。
 ネットで調べたら、各250グラムで、この4種類の北海道産サクランボが、高価な値段で売られていた。値段を見て、運んできた連れ合いもびっくり。
http://www.oh-cherry.com/shop/order_form/form_2kg_set4.html

 仏の子供大会で、食べさせていただきます。
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『64~ロクヨン』前・後編

 このところプログでは、ドキュメンター映画ばかりを取り上げている。この先も、その手の映画を取り上げることが多いだろう。しかし、別ににドキュメンター映画ばかりを観ているわけでなはい。大半はミニシアター系の外国映画だが、大手シネコンの話題作やヒット作も観る。そんなヒット作の中で、文句なくよかったのが、日本映画『64~ロクヨン』前・後編だ。

 「たった7日間でその幕を閉じた、昭和64年。その間に起きた少女誘拐殺人事件、通称「ロクヨン」」。昭和から平成になる混乱の中で、大事件の報道があまりなされず、時効が1年に迫ってくる。そこで、さらなる模倣誘拐が起きる…。
 ロクヨンの専従班だった主人公は、広報官として、マスコミ対応に追われている。現場の刑事ではなく、広報官が主役の警察ドラマも珍しい。情報公開を求めるマスコミ(記者クラブ-ここにも本社と地方の格差がある)と、不都合な情報を隠蔽しようとする上層部との間に挟まれて、葛藤の毎日だ。その上、警察内部も複雑で、たたき上げの現場組と、東京から来たエリートのキャリア組との対立もある。「クロヨン」の専従班の内部でも、隠蔽工作がある。

 すべてにNHKでテレビドラマ化されている。重厚な息詰まる演出に魅せられた。映画では、佐藤浩一が主役だが、テレビは、ピエール瀧が演じた。押し出しが強い佐藤よりも、中間管理職の必死感が伝わるテレビ版の方が、よりリアリティがあってよかったと思った。原作やテレビはD県警と仮名だが、映画では、群馬県警と実名になっているが、別に他意はないのだろう。

 テレビがとてもよかったので、原作の小説も読んだ。それで、ストーリー展開や犯人も分かった上で、期待半分、不安半分で、映画を観たが、重厚なテーストはしっかりたもって面白かった。

 最近の前・後編の映画は、水増しがあって、わざわざ二編にする必要がない作品も多い中で、これは、前・後編がつながりながら、それぞれに違うテーマももっていて、共に高水準というのも、最近では珍しい。

 後半のラストは、テレビから大幅に変更されて、一工夫なされている。加害者との激しい対峙とか、もともとは被害者(から誘拐事件の加害者)の心情も、ラストに静かに描いていた。うーん、どちからがよかったのかなー。ゴチャゴチャ入れないテレビ版でも充分そのあたりの心情を察せられる気がした。緊迫感という意味では、前編がよかった気がする。それでも、前後編共に、大人(特に中年男性が好きだろうな)の鑑賞に堪えうる作品。

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再会

Img_4883 今回の「あり田」での懇親会は、楽しみにしていたことがある。
もちろん、おいしい料理とお酒もそうだが、一番は、疎遠だった福岡の法友に再会することになったからだ。

 話は昨晩の深夜に、急遽、決まった。彼とは、一時、会館のお隣の通称「別院(?)」に住んで、お手伝いをしてくれていた。しかし、当方が配慮を欠いてしまって、残念ながら、絶縁状態になっていたのである。それが、父Img_4886の逝去などをきっかけにして、5月にお悔やみのお手紙を頂き、電話でやりとりするようになった。法務の関係で、週末は忙しいだろうが、せっかく福岡に行くのだから、前日の夜遅くにお誘いをしたら、とても喜んでくれた。

Img_4887 15年ぶりだという。当時はまだ学生だったのに、いまではすっかりお坊さんが板についている。成長した姿と共に、彼の人柄や雰囲気は変わらない。しかも、これまでのブランクがウソのように、一瞬で、以前の関係に戻ったことを、喜びあった。

 しかも、それは単に人間関係だけの話でImg_4888はない。法務をしながらも、なかなか共にご法を喜び、味わえる人達が回りにはおられないというのである。その意味でも、共に聞法してきた彼との仏縁が、また結ばれたことがとてもうれしいかった。

それにしても、刺身といい、お肉といい、しゃぶしゃぶもおいしかった! 殺生は、うまい。南無阿弥陀仏 

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「各発」と「共発」

 一月はカンボジア旅行、四月は熊本地震で急遽中止になったので、約10ヶ月ぶりの九州での法座である。

 昼間は、福岡天神のY会計事務所、夜は、博多しゃぶしゃぶ「あり田」での懇親会、そして翌日は、ご自宅での法座と、盛り沢山の内容。御参りの方も、それぞれに違っていたが、娘さんたちが通して参加くださったのが、うれしかった。

 一座は、Y先生のご法話があっり、ぼくは二座だけだったので、どちらも長めに話した。
 メーンは、「大悲の呼び聲」を解説。「大経」の歌とあるので、大経のお心を歌っておられる。普通に歌っても、20分以上かかる。大経なので、難しい言葉や説明が必要な箇所もある。普段、歌う時は、感情的な雰囲気で有り難がっているが、教義的な押さえが必要なところもある。如何せん長い。昼座をたっぴりかけて解説したら、聞いておられる皆さんも、ずいぶんお疲れで、よく休んでおられた。このあたりは次ぎへの課題にしたい。

 もうひとつは、「くもの糸」の分かち合いと、「帰三宝偈」のご法話である。最近、ここをよく味わっている。
 釈尊とカンダタの関係を、聖道門の自力の修行と菩提心に例えて味わう。それを、「帰三宝偈」の冒頭の「各発無上心」(自力の菩提心)と、「共発金剛志」(他力の菩提心)で味わう。「各発」-つまり各自、各々の力で起してもなかなか徹底できないが、「共発」-みなとにも発する。お正信偈なら「共同心」となり、回向句なら、「同発菩提心」となるところである。 
 では、共にとは、誰と共になのか。それは、阿弥陀様と「共」にである。だから阿弥陀様と共にだから、一切衆生と「共」にへと展開していくのである。他力ならばこそ、カンダタのように、各自が竪(たて)に、竪(たて)と修行をしていく必要がない。生死(迷い・四流)をたちどころに、「横」に超え、断たせていただくのである。

「道俗時衆等
 各発無上心
 生死甚難厭
 仏法復難欣」

「共発金剛志
 横超断四流」

 

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どこでも

   法座の前に散髪に行く。

    ご夫婦だけの小さなヘアーサロンなので、席も2つだけで、先客が終わるのを隣で待っている。店主との会話しているのは、京都では有名なプロゴルファーの方。ツアー転戦のことをいろいろと話してられた。今は、シニアツアーだが、定期的にテレビ番組があって、収録前には、かならず手入れにこられるとか。
   ぼくも大きな行事の前には、散髪することが多いけどね。

  元連れ合いの絵が飾られている。来るたびに新作を見るのは、作品をこに預けているからだ。

Img_4880  さて、翌日の福岡でのご法座は、Y会計事務所の会議室で。向かえには、やはり、Y画伯の作品。この絵と対面しなからのご法話をすImg_4889_2る。

  事務所をあとに、「あり田」の懇親会。お店のトイレに入ったら…。

  こちらが忘れたくても、どこでも付いてきてくださるなんて、まるでアミダさまか?

 

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★緊急告知★仏の子供大会に参加しよう

緊急告知です。

仏の子供大会は〆切日を迎えましたが、まだ子供さんが少ないので、緊急で募集しています。日程も、2泊3日に変更しました。
ご関心のある方は、ぜひ、お問い合わせください。

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2016/detail/08/kodomo2016-8.htm

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7月の華光誌輪読法座より

 「腹が立ったり、妬んだり、欲深かったりということは分かるけれど、地獄行きなどの深重の罪などは、どうしても思えません」。

 確かにその通りだ。仏法を聞かせていただいたおかげで、少しわが身を知らされたのだが、所詮、無明に覆われている。実は、そこを教えていただくだけでも充分聞かせていただているのだが、地獄行きという切実な実感がないことが問題になっているのだろう。

 ところで、今回読んだ巻頭言にもあったが、今年千回忌を迎えた源信僧都は、自らを「頑魯の者」と仰っている。また、智慧第一と称賛された法然聖人も、自らを「愚痴の法然房」とか「貧道」と仰った。

 善導さまは、大心海から化現された御方だと仰がれるのい、その御方が、自身は「現にこれ罪悪生死の凡夫(現在)、昿劫よりこのかた、常に没し、常に流転して(過去)、出離の縁あることなし(未来)」という身だと、決定して深く信じておられるのである。

 さらに、親鸞様は、「愚禿」と名告られ、「極重悪人」「煩悩具足」「煩悩熾盛」「蛇蠍のごとし」「欲もおおき妬み、嫉むこころがひまがぐて、臨終まで切れない」とか、「悲しきかな」の歎きになるなど、きりがないほど「地獄一定」の自己を徹底的に聞いておられる。

 七高僧と言っても自分よりちょっと上等な程度だと思っているが、決してそうではない。みな、私達泥凡夫と比べられぬほどの高僧方だ。戒律を保たれた清僧であり、たいへんな修行を行い、比類なき功徳を積まれた聖者方なのである。
 
 ではなぜ、ご自身をそこまで罪深い、愚者だと内省できたのか。
 それは、人間の力ではなく、阿弥陀様のまことのこころに出会われたからにほかならない。阿弥陀様の真実心、清浄心、そして大慈悲心に触れたならば、人間の智慧や才覚、善や行、慈悲などは、まったく虚仮不実であって、愚かな、悪人であると知らされるばかりである。

 ましてや私が、自分の力で地獄行きが知れると思うのは大きな自惚れだ。自分のほんとうの姿は教えていただかなければ分からない。自分で知ったと自惚れている日常の罪悪さえも、実は、仏法を聴くまでは罪だとは、夢にも思わなかったはずだ。しかし、聞法のおかげで、忽然として、火の河(愼恚)水の河(貪欲)に代表される煩悩が渦巻いてることに気付かせていただけたのである。

 私の地獄行きの姿を、無明の闇を、直視し続けて、その姿に光で照らしてくださっているのが、阿弥陀如来さまであるのなら、そのお光に遇わせていただくことが、地獄行きのほんとうの私に出遇ういただくことにほかならないのである。
 

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宵々山~聖徳太子のお言葉

Img_4763 日が落ちたころから、祇園祭の宵々山へ。

 今年は、高辻通油小路の聖徳太子の太子山から、木賊(とくさ)山、芦Img_4772刈山、油天神山などを回った。巡行では観たことはあったが、宵山でこのあたりにはあまり来たことがなかった。少し外れるだけで人出も少なく、お祭りの風情を楽しみことができた。家々に飾れた屏風を鑑賞すれば、家Img_4849_2人が説明くださるお家もあった。

Img_4778 蟷螂山や四条傘鉾などを回って、四条通の巨大な鉾を観た。さすがに鉾の辻といわるあたりはImg_4782混み合ってはいたが、それでも屋台が分離されたので、昔ほどの混雑はない。

 Img_4793屋台でつまみをかってビールをのみながら回ったが、猛暑続きの七月にしては、珍しく涼しい一日で、歩くのも苦ではなく、非日常をたっぶとり堪能させいただいた。前祭の二十Img_4794三基のうち、十七基も回ったようだ。

 太子山で聖徳太子ゆかりのTシャツを見つけた! 「我是則彼非」とプリントImg_4799されている。これに続く言葉が有名な、「共に是れ凡夫ならくのみ」。まさか、こんImg_4795Tシャツがあるとは知らず、思わず購入した。

 自分と、他者との違いに、イライラしたImg_4831_2り、怒ったりの毎日なのだが、自分こそ正しく、相手が間違っているのでも、自分が聖で相手が愚でもない。共にお互い凡夫であって、丸いイヤリングにどこが端かが分からないように、賢いも愚かもないという、賢者(聖徳太子)のお言葉。自戒の思いを込めて。

Img_4847 忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄てて、人の違(たが)ふを怒(いか)らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)ることあり。彼是んずればすなはちわれは非んず、我是みずればすなはち彼は非んず、われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ。是く非しきの理、たれかよく定むべき。あひともに賢く愚かなること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。(『憲法十七条』十条)

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『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』

  ドキュメンタリーをエンターテイメントに仕立てたマイケル・ムーア。深刻な問題で笑いを取る。そのサービス精神は、さすがアメリカ人である。銃規制やテロ、医療問題など取りあげるテーマは至って真面目。その手法がアポなしの突撃取材で、反対派にも油断させて切り込み、笑いに替える。その奥には毒のようなものがあって、観る側もドキドキさせられた。しかし、最近は、権力を茶化したり皮肉くる程度に毒が中和されて、ますますエンターテイメント性が強くなっている。

 今回の『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』では、突撃色は皆無。歓迎ムードたっぷりに大統領まで面談に応じて、終始、和やかな雰囲気である。その意味では、毒も、牙もなくなっている。

 が、しかしである。なぜか、胸が熱くなるシーンがたくさんあって感銘させられた。

 突撃先は、非英語圏のヨーロッパが、8ヶ所である。自由主義や資本主義、(日本は違うが)キリスト教などの共通基盤のある地域ばかりだ。1カ所だけ、イスラム圏のチャニジアが含まれる。アラブの春の過程で、女性の権利が確立され女性の社会進出が進む姿を捉えている。今やマイナスのイメージが大きいチェニジアだが、イスラム圏でありながら、女性の権利という意味では、日本より進んでいるようだ。小国ながら完全な男女平等政策を取って、金融危機の膿を出し切ったアイスランドも、もっと顕著だ。
 イタリアやドイツでは、労働環境や雇用時間、労働者の権利などがテーマ。フランスでは学校給食が取り上げて食育を、スロベニアでは大学無償化、宿題なし、統一テストもなく、授業時間も最短でありながら、世界での学力ナンバー1のフィンランドなどでは、教育問題が取り上げている。ポルトガルやノルウェーでは、犯罪と刑罰について。死刑廃止はもちろん、受刑者の人権問題にスポットが当てられる。

 受刑者への懲罰よりも社会復帰にウェイトが置かれているノルウェーでは、最悪のテロ事件(単独犯が77名もの若者などを射殺)の記憶も新しいが、そんな凶悪犯でも、死刑でも終身刑でもなく、最短なら10年、最高でも21年の懲役刑となった。息子を射殺された被害者の親へのインタビューが、秀逸。想像を絶する辛さを超えた光明に、涙が溢れてきた。

 残念なから、凶悪事件の抑止力、被害者感情の配慮などを理由に、日本では死刑廃止はほど遠い。それどころか、厳罰化の傾向が年々強くなっている。しかし、安心が増すどころか、比例するかのように生き辛さが増しているように思えてならない。真に豊かで、安心して生きられる社会とはが、問われている気がした。

  教育、女性問題、労働、刑罰など取り上げられた項目は、アメリカ以上に日本は後進国かもしれない。日本はアメリカ型の競走社会に毒されてきた。経済も、右肩あがりに拡大することが幸せだと信じられてきたのである。しかし、結局、私の人生はどこに向っているのか、いまの生き方(生活も、人生も)でほんとうによいのか、真に豊かな社会とはを改めて問われているかのようであった。

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一周忌法要法座

  父の一周忌法要を勤める。命日は8月7日なので、少し早くお勤めさせていただく。わが家の法事だが、特に親戚の参詣もなく、平日の昼間にもかかわらず、遠近各地より華光同人が集ってくださった。みんなでお正信偈をお勤めし、ご法話を拝聴する。尊いご法話で味わうことも多かった。

Img_4697_2 改めて、この一年を振り返る。
 突然の死だっだが覚悟もあって、直後から悲しさはそれほどでもなかった。最近になって、寂しくなったと感じることもあるが、それ以上に父から頂いたご恩徳を有り難く思うことが多くあった。
 仕事のことは、完全に引き継いでいたので、急に困ることは何もなかった。ただ、通常の業務に加えて、世間の手続きや、四十九日の法要、会館での偲ぶ会、そして追悼号の発行などがあったので、半年間ほどは慌ただしい日々続いた。

 世間的な普通の親子関係ではあるが、それ以上にご法の上でいうと善き知識でもあり、法の上でのつながりが強い。父が伝えてくれたこと、華光に流れる精神を思うとき、南無阿弥陀仏として、今もなお、生きて働いてくださっているように思えるのだ。

 現実は、辛いことやたいへんことも多々ある。願いどおりいかないことに思い惱まされる。しかし、それ以上に、この腹底に大きな資源を頂いたいることを喜ばずにはおれない。何よりも、今生事を超えて、真っ暗だった後生への皓々たる燈火が輝いているのである。そして、そのことを喜びあえる法友がいることも、また尊い。

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『FAKE』

   『FAKE』は、森達也監督の最新作。
 帰宅して、「サムラゴウチマモルを描いた映画を見てきた」と連れ合いに伝えると、「誰のこと?」と聞き返された。「じゃ、新垣さんと言えばわかるよね」と言うと、思い出して、「そんな名前だったかな。漢字で「佐村河内守」と書かれたら特徴あるけどね」と言った。確かに、その後も次々とFAXEな方々が、マスコミやワイドショーを賑わわせ、賞味期限が過ぎたころには、次の主役が現れて忘却されている。新垣隆氏のゴーストライターの告白が2014年2月のことで、まだ2年ほど前のことなのに、すでに昔出来事になっているのだ。ぼく自身、この騷動が起るまで佐村河内守氏のことを知らなかった。音楽も聴いたことがなかった。当然、事件にもそれほど興味はなかった。誰が主に作ろうとも、その音楽を聴いて感動したのであるなら、「詐欺だ」などと騒ぐ必要がないんじゃないのかと思っていたからだ。

 それでも、この映画は面白かった。

 バラエティーのように笑えてもくる。夫婦や家族の愛にしんみりもさせられる。緊迫してドキドキする場面もある。それでいてラストは感動的という評価もるあが、どうもぼくには、モヤモヤと嫌疑が残るような終わり方をで終わった。
 
 被写体は、騷動の渦中にあった佐村河内守氏夫妻の自宅で密着するのである。自宅のテレビ前に閉じこもっている佐村河内守氏は、マイナスオーラ全開で淀みまくっている。その彼を信じ支える妻や家族にカメラは向けられるのだ。

 民放のテレビ局が年末特番のオファーに来る。その一部始終も映し出される。「将来にスポットを当てる」とか「反論もあおりでしょう」とか、「決してお笑いではありません。どうか信じてください」などと、とにかく調子のよいことを並べ、引っ張りだそうとする。でも、傍目からみても、信念やポリシーをもって、彼にオフアーしているのではないかのことが、その言動から感じられる。視聴率のために話題になる素材を引き出したいだけである。オファーを断った彼に代わって出演したのは、新垣隆氏であった。当然、番組は、事件を茶化し笑い物にしている。それ一つ見ていても、テレビというメディア、特にバラエーやワイド・ショーの本質が映し出される。その画面を眺める佐村河内氏を、カメラは取られえていく。

 もしこの映画だけを観たならば、新垣氏が、如何に狡猾で、告発したルポライターもぐるであるかのように見えてくるから、不思議だ。結局、映像とはそんなものである。もちろん彼らも登場するのだが、正式な取材を拒否した形で描かれているのだ。~その反論はこちらにもある~。http://blogos.com/article/178313/

  一方、アメリカのテレビ局の取材から、核心部分のするどい質問を受ける場面も収録されている。それに対して、誰もが納得する返答ができない彼がいるのも事実だ。

 森さんのことだから、単なる第三者の取材では終わらない。彼らと共に過ごすなかで、森さんの中で動かされるものもあったのだろう。夫妻に積極的に働きかけて、場面を展開させていく。ここはよかった。さらに、彼の音楽への情熱を鼓舞して、彼に作曲するように働きかけるのである。驚かされたのは、けっして名曲かどうかは別として、自力で作ろうと思えば作曲もできることも証明してくる。

 澱んでいた彼の姿が変化する。失ったもの、裏切っていったものばかりの中で、変わらないものがあったことに気付かされるのであろう。
 そしてやってくるラストの質問だ。沈黙のまま、答えを出さずに映画は終わる。ぼく自身にはすごく嫌疑が残る終わり方だ。ほんとうに監督は彼を信じていたのだろうか。FAXEは、誰のことを言っていたのだろうか。

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広島支部法座~究極の依り所~

Img_4676 7月は、安芸高田市のY家での家庭法座である。例年、梅雨のこの時期に行う法座も、13年になるという。縁側を開放すると心地よい風が入ってくるのだが、今年はずいぶんと暑かった。それでも、トンボが家の中に入ってきたり、蓮を眺めながらのご法縁は気持ちがいい。

Img_4683 死生学の藤井美和先生の、私にとって大切なもの、そしてその大切なものと別れるワークを行う。1)目に見えて大切なもの、2)大切な人、3)目に見えないが大切なもの、4)大切にしている活動や時間の、4つをそれぞImg_4678れ4つ考えて、病や老の現実で次々と手放しお別れしていくもの。そのプロセスを6~7名ずつで分かち合いながらの進行。

 このワークをすると、最期に頼りになる大切なのもが、物資的なものより、身近な家族や生きがいとした集まり、目に見えない信念だっImg_4675_2たりするのが、よく分かる。今回は、連れ合いや子供たちを家族を残される方が多かった。そこで、そこをもう一歩踏み込んで味わってもらった。ほんとうに、妻子が不憫だと思うのなら、その家族と共にお念仏を喜ぶ身になっているのだろうか。それとも、生きていく上で役に立つから大切にしているのだろうか。または愛着だったり、依存だったりしないか。結局、「菩提の増上縁にあらず」なのか、ほんとうに浄土の歩みを共にしているのかは、よくよく味合わせて頂きたいところだ。

 今回は、ぼく自身もいろいろと気付かせていただいた。日頃は、目に見えるものや目の前の人ばかりを大切にしているが、実は、目にはみえないけれども、大切に受け継いだもの、頂いたものがたくさんあることを実感させていただく。

 ここに集う法友もそうだ。そしてそのご縁(法縁)もうそだ。そして、これまで頂いてきた種々のご教化、お育てもそうである。目に見える物質的ものは、努力して、時には争って奪っていくものである。しかし、ほんとうは無条件に与えてくださった種々のご恩徳の上に、僕自身は立たせてもらているのである。このからだがそうではないか。自分のものだと執着しているが、両親からいただき、慈愛によって育まれ、無数の命をいただいて、今日がある。自分のものと威張れるものは、何もないのだが、それを見誤って執着するので、思い通りならないから苦しみが起るのである。その他にも、表には顕れてこなくても、その底に無限の資源が眠っていることに気付かせてもらった。おかげで、最近、華光同人の動向にいろいろと煩わされることが多かったのだが、改めて、大切なものを教えていただいて、力をもらう気がしたのである。

 結局、その究極にあるのが、他力廻向の南無阿弥陀仏のお名号ではないか。いろいろと大切なものはある。しかし、唯一の畢竟(究極)の依り所である「念仏のみぞまこと」のおこころを改めていただいた。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし

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大阪支部法座~大悲の呼び聲~

 奈良県生駒市での大阪支部法座。目新しい方はなかったが、久しぶりの方が数名お参りくださる。
 伊藤康善先生の「大悲の呼び聲」を細かく区切って解説しなから頂いた。
 タイトルの「大悲」のお心を頂き、また「呼び聲」のお心も頂いた。これは大経のおこころを歌唱にのせて味わうのであるが、普通に歌って25分ほどかかる。それを細かく解説するので、2時間でも時間が足りず、最期はかなり急ぎ足になってしまった。

 「大悲の呼び聲」を唱和して、その大悲のお心に、涙ぐむ方も多い。中には号泣念仏される方もある。しかし、その内容は、難しい言葉も出てくる。ほんとうに一言一言をどれだけ理解できているのだろう。たとえばである。

「どうして衆生を救おうか なんとう救ってやりたいと
 無縁の慈悲を むねとして 慈顔しずかに衆生をば
 観じませども あわれなや…」

とある。決して難しい言葉はない。しかし、この「無縁の慈悲をむねとして」とはどういう意味かと問われたら、ほとんどの方は理解されていなかった。普通に読めば、慈悲の縁がないようにとか、もしくは慈悲と無縁の私達をと理解される方もある。しかし、これには元があるのだ。
 『観経』には、

「仏心とは大慈悲心なり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂取したふ。」

 また『真仏土巻』には、

「慈悲に三縁あり。一つには、衆生縁、これは小悲なり。二つには、法縁、これは中悲なり。三つには、無縁、これは大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆえなればなり。」

と『華厳経』を引用れている。
1)衆生縁、小悲とは、世俗的な慈悲
2)法縁、中悲とは、声聞・縁覚が起こす慈
そして、3)無縁、大悲は、差別を離れた平等絶対の慈悲で、大乗の菩薩や仏が起こすものであるのだ。
ちなみに、慈悲とは「苦を除き楽を与えることである」ことである。だから、小悲である世俗的な慈悲でも、目の前で苦しんでいる人がいると、なんとかしてその苦を除き、楽を与えようと慈悲の心が起るというのである。しかし、親鸞様、そんな世俗の慈悲、人間として当たり前の慈悲すらこの私にはないと内省されている。ほんとうに「小慈小悲もなき身にて、衆生利益はおもふまじ」なのである。

 しかし、そんな救われていく縁なき衆生に対しても、無差別平等の慈悲を起して、自ら同体の大悲でこの私のことをご自分のこととして、涙してくださるのが、大悲のお心なのである。そして、嬉々として地獄真っ逆様に落ちていく私を、どうして救うことが出来るのかと、考えに考え、修行に修行を重ねて、南無阿弥陀仏のお名号となり、それを廻向して、私を呼び覚まし、呼び起こし、そして浄土に呼び返し続けてくださっているのである。

 そんな私にかけられた大悲の呼び聲をお聞かせに預かったならば、疑いなく、慮りなく、ただ「南無阿弥陀仏」とお返事申すしかないのである。
 

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浄土五祖伝を読む~善導禅師(1)~

 浄土五祖伝の輪読講義も、今月から善導さまに入る。ご講師が交代し、はっきりした力強い声で、内容もとても分かりやすかった。同じテキストでも、ここまで講師によって違うのかと思った。

 親鸞聖人は「善導大師」と尊称されているので、真宗者は「大師」で慣れているが、法然様は「善導和尚」と尊称され、五祖伝では「善導禅師」と尊称されている。細かなことだが、浄土宗で「善導大師」と尊称が統一されるのは江戸期に入った頃だというのである。当たり前のように思っていたが、これもまた所変わればである。

 浄土教最大のスーパースターの登場。「浄土五祖伝」には、六伝が掲載されているが、未掲載の伝記もあるのでそれにも触れていくという。今月は、『続高僧伝』と『瑞應伝』を読んだ。

 興味深かったのは『続高僧伝』の記述である。
  『続高僧伝』が記述された時点で、善導さまはまだ在世中。道綽さまも、在世中だったが、すでに奇瑞を示す高僧として高評価を受けている。ところが、スーパースターの善導さまも、この時点では評価は高くない。善導さまの項目は、「会通」という高僧の「伝付伝」、つまり付け足しとして出てくる。しかも、その項目は「遺身篇」である。これが、後々、遺身篇で登場する逸話が一人歩きし、善導さまが浄土を願って自死されたというエピソードなどへと展開したりするである。

 実は、善導さまの生誕や出生地も、正確には分かっていない。ご往生の年代と、年齢などから、大業九(613)年と推測される。道綽さまが仏教弾圧の武帝の時代あったのに対して、善導さまは、生まれながら、仏教が守護された隋の時代、さらに唐時代を生きられるのである。

 『続高僧伝』の記述を窺っていくと、

(1)出身不明で、終南山の僧である。
(2)天下を周遊し、仏道を求めていた。
(3)道綽禅師に出会い、浄土教(念仏、弥陀の浄業を行じた)に帰依。
(4)その後、都(長安)に入る。
(5)『阿弥陀経』を書写すること数万巻。多くの男女が師事し、光明寺で説法。
(6)a教化を受けた信者が、「仏名を念じることで往生が定まるか、どうか」と問い、「定んで生ぜん」と答えると、
   bその信者は、礼拝し、「南無阿弥陀仏」と称えながら、門前の柳の木から、合掌して、西向って逆さまに身投げする(捨身)。
(7)役所までその噂が広がる。

というものである。善導さまが捨身されたのではなく、信者が南無阿弥陀仏と称え浄土願生して身投げするという事件が、ちょうど『続高僧伝』の会通伝を執筆中に起こり、ここに伝付伝-付け足しとして、事件簿が記載されたと推測されているのである。

 ところが、善導さま没後、100年後ぐらい後に顕された『瑞應伝』の記述を窺うと、

(1)泗洲(安徽省)出身で、朱氏。
(2)幼少から浄土曼陀羅を観て願生。
(3)開律師のもとで具足戒を受け、『観経』に出会って、浄土門に入る。
(4)道綽禅師に出会う。
(5)善導が道綽に往生決定を請い、蓮華行道の答えを得る。(※)
(6)自らを卑下し托鉢行を怠らず、沙弥からも礼を受けなかった。
(7)『阿弥陀経』を書写すること十万巻。『観経変相図』の図画・寺院修復に尽力。

というふうに詳しくなっていくる。『阿弥陀経』書写一つでも、数万から十万巻ともらえてくるのである。既に、『観経』に出会ってから、道綽さまに師事するというのである。

また、(5)の※だが、同じ『瑞應伝』の道綽さまの項目では、師匠である道綽からが善導さまに自らの浄土往生の可否を問うているが、同じ書物でありながら、ここでは、師匠の道綽さまが善導さまに問うという形になっており、この点では整合性が保たれないないように思われる。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-6036.html

 善導さまの伝記は捉えどころがないが、逆にいうとそれだけ興味深いものである。特に、この後、ますます神聖化(仏格化)をとげ、阿弥陀仏の化身だとまで言われるようになる。では、伝記間で何が共通し、より史実に近いのか、どんなプロセス、時代を経て仏格化されていくのかなど、大いに興味のあるところである。

 面白かったです。

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『帰ってきたヒトラー』

 ドイツ最大のタブーは、ナチスやヒトラー礼讃、ユダヤ政策に触れることだろう。タブーどころか法律で禁止された犯罪行為になる場合もある。そんな状況で、なんとも挑発的で、シニカルなブラックユーモアに包まれた映画。ヒトラーを風刺するというより、迷走する現代のドイツ(ユーロ、もしくは世界)を風刺したコメディだ。いや、コメディではないのかもしれない。そこが恐ろしい。

 突然、1945年の彼のまま、現代ドイツにヒトラーが生き返ったらどうなるのか。映画『帰ってきたヒトラー』は、小説をもとにしたフィクショッン(虚実)である。

 現実を受け入れて、いま社会状況を学んだヒトラーは、ヒトラーのそっくりさんとして、お笑い番組での人気者になっていく。別にギャグをするわけではない。しかし、彼の大まじめな命令や演説がギャグになる。テレビ業界を批判し、現実社会を皮肉り、政治を批判していく。その堂々とした態度は、過激どころか、きまめて真っ当に聞こえてくる。ただし、一つだけ禁止されていることがある。ユダヤ人問題には、絶対に触れないことを約束されているのである。彼は、政治家であるので、現状を踏まえ牙をかくて妥協する能力もあるのだ。天才的な煽動主義者は、今は、テレビの時代であり、さらにはネット社会であることに気づき、よりチャンスであると知るのだ。

 ところで、この映画の恐ろしさは、フィクショッン(虚実)でありながら、それを超えてドキュメンタリーになって、虚実が融合していくところにある。ヒトラーに扮した姿で、カメラマンと一緒にドイツ中を旅し、事情を知らない一般市民の中に飛び込んでいく。もちろん、彼らには、あくまでもヒトラーに扮した俳優がインタビューに来ていると思っているので、大歓迎して受け入れていく(もちろん、嫌悪的な態度を示す人々もいるが、少数)。そして、マイクを向けると、移民を受け入れている現実に対する不満をふちまけ人達がたくさんあらわれるのである。さらには、現実の移民(イスラム)に反対するデモに参加したり、NPD(ナチスに近いような極右政党)の実際の副党首にインタビューしたりもするのだ。フイクション部分では、NPDの本部に乗り込んで、その不甲斐なさをダメ出ししたりもするのだ。

 しかし、彼はテレビ界を干されてしまう。取材中に、言うことを効かないイヌを銃殺してしまうのだ。動物虐待であれだけ熱狂したいた人々は冷めてしまう。が、それを機会に、書物を出してベストセラーになり、映画化されていくというでのある。劇中映画のラストシーンが、またよく出来ている。

 彼が大衆を騙し、煽動したのではない。民衆の方が私を選んだというのだ。

 アメリカでは、誰もが笑い飛ばしいていたトランプ氏が共和党の候補となり、大統領選を戦っている。イギリスでも、大方の予想を反して、EUからの離脱が決まった。どらちも、世界でもっとも成熟している民主主義の国々で、民衆が選んだ道なのである。

   笑いごとじゃないよね~

 

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7月の伝道研究会~勝易二徳

    伝道研究会も称名論に入って、いよいよ佳境である。今回は、法然聖人が示された「勝(すぐれ)て、易(やさ)しい二徳の念仏」について。

 お念仏、「南無阿弥陀仏」と口に出して称える称名念仏は誰にでも出来る易しい行である。しかし、他の修行に比べたなら、誰にもで可能な易しいというこは、それだけ劣った行であると考えられていた。易しいから、当然、価値も低く、功徳も少ない。難しい行であればあるほど、価値は高く、功徳も莫大であると考えるのは、ごく当たり前の私達の常識だ。
 ところが、そうではないのだ。お念仏は他の修行に比べて易しいだけではなく、勝れたお徳があるのだと、お念仏に勝易二徳(勝れている徳と易しい徳)があることをお示しくださった。浄土往生のためには、ただ念仏を称えるだけでよい(専修念仏)、他の修行は一切不要と説かれたのが、法然聖人。それは、ご本願に一切の諸行を選び捨てて、唯、偏に念仏一行を選ばれたからだ。ではなぜ、一切諸行を選び捨て、ただ念仏一行を選ばれたのか理由を、勝易二徳で明かにされている。

 今回は、『選択集』の意訳を読みながら、勝劣の理由の部分だけを味わった。

『選択集』の本願章には、

「問うて曰く、あまねく諸願に約して、麁悪を選び捨てて善妙を選び取ること、その理しかるべし。なにがゆえぞ、第十八願に、一切の諸行を選び捨て、ただ、ひとへに念仏の一行を選び取りて往生の本願となしたまうや。

答えて曰く、聖意測り難し。たやすく解すあたわず。しかりといえども、今試みに二義を以ってこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。
初めに、勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとなれば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかれば則ち弥陀一仏のあらゆる四智、三身、十力、四無畏等の一切の内証の功徳、相好、光明、説法、利生等の一切の外用(げゆう)の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在せりゆえに、名号の功徳をもっとも勝れたりとなす。余行はしからず。各々一隅を守る。ここを以って劣となすなり。譬えば世間の屋舎の、その屋舎の名字の中には、棟、梁、椽(てん)、柱等の一切の家具を摂せり。棟、梁等の一々の名字の中には一切を摂することあたわざるがごとし。これを以ってまさに知るべし。しかれば則ち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。ゆえに劣を捨て勝を取りて、もって本願となしたもうか。

 仏さまの御心は推し量ることは難しいのだが、と断りながらでも、南無阿弥陀仏のお名号は万徳の帰するところであって、そこには、阿弥陀仏の四智、三身、十力、四無畏等などのいっさいの「内証の功徳」と、相好、光明、説法、利生などのいっさいの「外用の功徳」のすべてが摂在しているのであって、その名号を称える称名行がもっとも勝れた行であるとされた。そして、たとえをもって、ちょうど南無阿弥陀仏が家全体ですべてが収めたいるのに対して、諸行は、梁とか、柱のように家の一部分にすぎないとして、これを劣ったものとしているのである。だから、阿弥陀様をのお名号の功徳に比べたならば、他の一切の諸行の功徳は劣っているので、劣ったものを捨て、勝れた名号を取られて、本願にはその御名を称する一行を選ばれたというのである。

 では、内証の功徳である、四智、三身、十力、四無畏とはどんなことかを、悟朗先生のテキトスをもとに学んだ。

 8月は夏休みでお休み。

 次回は、9月7日(水)夜7時30分~
 念仏の勝易二徳の、難易の理由の部分で、称名論も終わる。

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佐藤錦

Img_4658  今年も連れ合いの実家から、摘みたての「さくらんぼ」が届けられた。

  摘み初めの佐藤錦である。

 5月末にはまだ青い実だったが、それから1ヶ月で、立派Img_6785に成長するのだなー。

 今年もたくさん実をつけたという。それが農家にはって善いのかというと、多すぎると、一つ一つが小粒で、甘味も薄くなる。しかし、さくらんぼは間引きはできない。たくさんできるからだ。だから、多すぎてもダメだし、少なすぎてもダメというのだから、難しい。

 連れ合いが、来年が最後か、再来年が最後、不安なことをいう。高齢化や後継者など悩みは尽きない。

 なおさら、丹精込めて収穫されたサクランボを味わっていただいた。事務所や伝道研究会の皆さんにもおすそ分けして喜んでもらった。

 おいしかったです。

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『天皇と軍隊』

  日本で大声では語れないタブーがある。前回取り上げた暴力団もそうだがhttp://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5d0b.html、最大のタブーは天皇に言及することだろう。もちろん皇室礼讃なら問題はない。しかし、たとえば、昭和天皇の戦争責任を公然と語った場合、長崎市長のように凶弾の犠牲になることもある。

 2009年に作られた『天皇と軍隊は、日本人監督の撮ったフランス制作のドキュメンタリー映画。2009年の作品が、昨年から日本で上映されだした。

 160413日本本土の空襲の激化、沖縄戦、そして二度の原爆投下によって日本の敗戦は決まる。そしてアメリカによる占領政策、天皇制の存続と日本国憲法の制定の経緯、東京裁判、武力解除と戦争放棄から再軍備化への道。日米安保条約に、靖国神社、さらには三島事件と、現在の九条改正の動きなどが、貴重なアーカイブ映像と、当時を知る日米関係者へのインタビューで構成されている。タイトル以上に問題点は多岐に渡たり、戦後日本が抱える矛盾や課題を浮き彫りにしている。

 憲法(九条)、靖国、日米安保、オキナワ、自衛隊、そして天皇制…。どれもが国論を二分するような大問題ばかりで、それらを90分で扱うのだからどうしても総花的にはなる。しかし、簡単に答えを出しえない大きな課題が、実はその根のところで繋がっていることを示唆しているのだ。

 アメリカ(マッカーサー)の占領政策と、アジアでも緊迫化する共産主義との戦い。それが、日本側の天皇制維持との思惑で一致する。その文脈で、東京裁判も、憲法九条や、憲法二十条(政教分離)と靖国神社、さらにオキナワ政策を見ていくと、日本側が何を第一に護り、譲歩したのか。占領国のアメリカが何を利用し、妥協しあったのかが、よく分かるのである。

 予告映像のラストは、昭和天皇の初めての公式記者会見のご返答の一声目で終わっている。
「戦争終結にあたって原爆投下の事実をどのようにお受け止めになられましたか」という質問である。
1975年時点では、こんな質問が出来ていた事に、まず驚いたし、また率直なお答えにも驚かされた。
 本編では、この返答を結びとして、原爆ドームを前にした1947年の広島訪問の映像で、映画は終わる。
 その答えを聞いて、なぜマッカーサーが天皇制を維持し、またそのために日本側がどのような態度で臨んだのかの本質が隠されていているように聞こえた。

 衝撃的だった。

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初夏仏青研修会~白色白光、青色青光~

 猛暑の中での仏青研修会。
 最初、参加者は少なかったが、会長を先頭に世話人のお誘いに動かされて、ボチボチと集まりだした。ただ昨年は高校生や大学生など20代の人ばかりだったのが、今年は、30代の後半組が大半で、これは今後の大きな課題だ。

 少人数なのて信仰座談会を工夫する。参加者全員の信仰体験発表と分かち合いを中心にした法座だ。
 一人の持ち時間を20分~25分、その後の分かち合いが15分程度。だいたい一人の時間が40分ぐらいで、それを全員が担当するというもの。「ミニ体験発表」と命名されていたが、ミニではなくてしっかりとしたものだった。全員で車座に座って、その場所に座ったまま自分を語るというスタイルになった。これが、予想以上に有り難く、面白かった。
 思いつくままによい点をあげれば、
 1)聴き手側に、今は聴く時間だという聴く準備ができる。
 2)持ち時間が決まっているので聴き手に、この話はいつ終わるのかという不安がない。
 3)全員が聴き手であり、同時に話し手になるので、誰の話も共感的に聞くことができる。
 4)信・未信、聞法の長短に関わらず、いまの自分の心境を話すので、聴き手が善し悪しではなく、話し手の今の心境として、そのまま受け止めることができる。
 5)ひとりひとりの話をじっくりと聞くことは案外少なく、各人が自分を開き語ることで、みんなの距離がとても縮まる。

 大半の方が、この場で初めて企画を聞かれたので、事前準備もない。そのために時間配分がうまくできずに、最初の浄土真宗との出会いに多く時間が割かれて、大事な信の一念のところや今の心境の話が慌ただしく進んだりもした。だから最初は20分間も話すことはないと言われていても、大半が時間オーバーになるほど話に熱が入った。

 個々には触れないが、男性陣は、学生時代に他の会での聴聞がきっかけという方が多かった。それでも年齢や地域によって、その会に対する思いがそれぞれ違った。また、理系の方も多くて、論理的な思考や理詰めで聞法されて、そのような質問が出される方も多いという方が、ぼくなりその気持ちが少し地理解できた気もした。一方、女性陣は、お寺だったり、親や祖母が真宗や華光に関わったりで、子供のことろがご縁があっという方ばかりだった。他には、チベット留学し、在家なからチベット仏教や禅宗の修行をしていたという方の話もあった。

 結局、仏法との出会いも、また今の心境も、それぞれあるのだが、すべてここでは、如来(念仏)に統一されている方のように思えて、尊かった。僕自身も、皆さんの歩み(阿弥陀様のあの手、この手の方便)がとても尊く、お念仏と共に涙が滲むお話もあった。

 まさしく、白色白光、青色青光である。

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華光誌発送!

   7月1日、2016年もちょうど半分過ぎ去って、今日から折り返しだ。早いものですね。それにしても、今日は暑かった。夜になっても、ムシムシと蒸して、からだがだるいですね。
 
 そんな1日に、予定どおり7月号の華光誌を発送しました。今回は、若手のK先生の誌上法話デビューです。お楽しみに!  月曜日ごろから配達されるかと思います。

 同封物として、増井悟朗先生の往年の法話や講話を復刻して、6~8枚組のCDやmp3データで発信しています。セットは、第1弾から第4弾まであって、その広告を入れています。貴重な内容ものもありますので、ぜひ、ご活用ください。
 また、9月の京都の親鸞聖人・御旧跡巡拝の旅(第40回聞法旅行)の案内状も同封しています。こちらも、奮ってご参加ください。

 なお、7月の仏の子供大会の案内状は4月に同封済なので今回は入っていません。
 もしお持ちでない方は、ご遠慮なくご請求ください。
 仏の子供大会は、華光会館で開催予定ですが、子供の参加者が少なくて、開催が危ぶまれています。どうか、お子さん、お孫さん、お知り合いの方にもお声かけをお願いします!

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2016/detail/08/kodomo2016-8.htm

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