『ヤクザと憲法』
簡単に正解が出ず、葛藤にさられるような秀逸ドキュメンタリー映画を続けて観る。
その第2弾で紹介するのは、『ヤクザと憲法』である。次々と問題作を深夜テレビで放映し、さらに劇場版ドキュメンタリー映画として上映する東海テレビの8作目。
正直、ドキドキしながら画面を見ていた。ほんとうに大丈夫なのだろうか(上映されている段階で問題ないのだが)という想いがあった。
「実録」ならぬ、ホンモノの暴力団事務所内部に、カメラが潛入し、密着取材をするというのである。
テレビ局が放映で、ヤクザ(暴力団)を取り上げることは、最大のタブーのひとつだろう。いや正確には、よく取り上げられてはいる。それは、一方的に暴力団を悪として、壊滅をめざすキャンペーンで、市民団体や警察の取り組み側からリポートされている。そこでは、当然、ヤクザは、一般市民(私達とは)とは違う無法者の犯罪者集団であり、ただただ恐ろしい存在である。その恐ろしいものを排除するために、勇気をだした市民が立ち上がり、警察がさっそうと取り締まり、撲滅をめざす。
それが、全体公約数のまぎれもない正義であり善なのであると。
もちろん、暴力団を肯定するのでもない。しかし、怖いからといって、実態を何も知らずに、排除する。しかも、正義を振りかざして、斬罪する。どれだけ国家権力が暴走しようとも、相手が暴力団なら、市民団体も喝采する。
でも、ほんとうにそれでいいのか。
これは、暴力団の事務所の内部に潛入し、組事務所の内実を密着取材した映像である。100日、500時間にも及ぶ取材である。しかも、相手は、暴力団対策法が作られるきっかけとなった山口組と清勇会の抗争(一般市民も巻き添えをで死亡)の張本人で、15年の実刑を受け服役を終えた川口会長の事務所である。それでも、謝礼は払わない、撮影した素材は見せない、モザイクはかけないなど、暴力団の利益となる条件はないにも関わらず、暴力団側も協力的である。
暴力団の側から「ヤクザと、その家族に人権侵害が起きている」との訴えが起ったことが、きっかけだからだ。いま、銀行などで通帳をつくる時、「反社会的な団体とのかかわり」という項目に同意させられる。つまり、ヤクザであるというだけで、通帳は作れない。もし、偽って通帳を作っただけで、まるで大犯罪を犯したように、テレビニュースで取りあげられ、大規模な家宅捜索が行われる。それ以外にも、微細な犯罪で逮捕され、上部組織にまで家宅捜索が及ぶ。
また、暴力団を弁護する弁護士にも風当たりも強い。いや、ぼくだって、山口組の顧問弁護士と聴くけば、どんな悪徳弁護士で、どれだけボロ儲けしているのかと思ってしまう。しかし実態は、まったく違った。ヤクザを弁護する弁護士というだけで、仕事は減り、世間のバッシッグを受け、さまざまに国家権力から目をつけられて、被告として何度も裁判闘争にあけくれている。結局、彼は廃業に追い込まれる。そうなると、誰もヤクザを弁護しようという弁護士はいなくなってくる。
撮影中、事務所へのガサ入れ。警察がテレビカメラに気付く。家宅捜索の冒頭を取らせたら、もうそれで充分だろう。出でいけと命令する。ここまではお約束のセレモニーなのだ。しかし、まだグズグズ居座ると、怒鳴り出し、すごむ。そして力で排除しようとする。テレビカメラが居すわられたら困ることでもあるのだろうか。結局、テレビで報道されるのは、この頭ドリの部分だけで、最後まで取材しているわけではないのに、ニュースになっている。
「出て行け!」とすごむ警察官は、ヤクザより怖い。声や態度、言葉遣いだけでない。もう体質の問題である。正義があり、市民の喝采をえた時の警察の怖さが、この部分の映像を観ただけでも、充分に知ることができた。
森達也氏が、渦中にあったオウム真理教の内部から撮影した『A』で問題化された構造と、まったくうり二つである。
この映画でも、暴力団への便宜供与だとか、暴利団を肯定するなどという正義漢からの批判にさらされていくのであろう。けっして、暴力団を肯定しているのではない。しかし、こんなやり方がまかりとおり、こんな社会状況の方が、恐ろしいのではないかという問題提起である。
結局、ぼくたらは物事をうわべでしか見ていないということである。
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