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くもの糸と、浄土の大菩提心

Img_4614  長浜での東海支部と京都支部との合同法座。京都と東海以外に、奈良や日高、そして東京からの参加もあった。連れ合いは、長期の北海道公演を終えて神戸空港から、夜に直接会場入りした。

 初日は、死生学の藤井美和先生の死に行く時の別れのワーク。ほんとうに大切なものとの別れのワースでもある。ワークそのものも大切だが、その中での気付を6名グループで分かち合うことに主眼Img_4616をおいている。グループ分けには、東海や京都支部で固まらないように配慮した。テーマがあると活発に話し合いがなされたようだ。分級座談会に分かれて、長めの座談会も持たれた。

Img_4610 朝は、O先生のご法話を拝聴。親鸞聖人の最晩年、最期のお手紙をもとに、「愚者になる」「愚痴に還る」というテーマで、ご自分を開いたお話だった。

 2日目の昼から安明寺に移動。前席では、芥川龍之介の『くものImg_4618糸』を読み、その後、昨日の6人グループで活発に味わっていただく。なぜ、くもの糸が切れたのか? お釈迦様の御心は?をテーマにした話し合い。

 後座は、昨年10月の高山・仏青法座の法座でも取り上げたが、カンダタの話の時に、下品の懺悔をされた(正確に、そのような状態になりかけた)方の、その後の信一念の体験と、壮絶な大歓喜、懺悔体験の手紙を紹介した。要は、くもの糸が切れたのは、単なるエゴとか自分中心ではなくて、自分の正しく正義と思っている聞法や求道の姿勢こそがカンダタそのものではないかという問題提起である。それを、親鸞様が『信巻』で引用される帰三宝偈の一文から頂いた。「各発無上心」と「同発菩提志 横超断四流」の違いから味わった。
 つまり、おのおの(各人)が起こす菩提心は、いわば自力の菩提心。カンダタのように、くも糸を竪(たて)に竪(たて)に、自分の力で修行して登っていくかしないのである。自力の菩提心であっても、上求菩提と下化衆生が離れていては菩提心にならない。だから、竪に登る修行の最中に「降りろ、降りろ」と叫んだ瞬間にクモの糸は切れたのである。絶対に、私の力では助かる道はないのである。同時に、それは諸仏としての釈尊の精一杯のご教化でもあるのだ。

 しかしである。阿弥陀様のお救いは横超である。横ざまに超えさせていただくのである。浄土の大菩提心は、他力廻向のこころであるがいえに、願作仏心だけでは、一切衆生に利益をもたらす度衆生心でもあるというのだ。

 法然さまは、行として菩提心(菩提心そのものではないが)をきっぱりと否定された。それに反駁されたのが栂尾の明恵上人である。明恵さまは、たとえ行と限定されても菩提心を否定された時点で、もう仏教ではないと断罪されたのである。それに対して、親鸞さまは、菩提心に聖道と浄土の変わり目があることを示されて、横の大菩提心は、横超の金剛心であると明示された。それは衆生の側で起こす自力の菩提心ではない。諸仏のお救いの限界を超えるためには、自ら正覚の座を降り、つまり悟りの世界に安住するのではなく、逆に阿弥陀様の方から私の地獄に飛び込んでくださる道しかなかったのである。だからこそ、「南無阿弥陀仏」ひとつで横ざまに超えていく、頓中の頓で仏となる道をご成就くださったのである。私が、この身このままで、横ざまに速やかに迷いを超えさせていただける。南無阿弥陀仏として成就くださったお救いは、私に他力信心を廻向くださるのだが、それはほかならぬ浄土の大菩提心であり、他力の金剛心なのである。私の中から生まれるはずのない無根の信が、他力のお力で誕生するのである。

 観光気分や物見遊山の気分のご聴聞では、あまりに申し訳なさすぎる世界ではないか。

 

 

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