6月の聖典講座~五悪段(1)~
4月から、「釈尊の勧誡」(お釈迦様のお勧めと誡めの説教【三一~四六】)に入ったが、ここから主聴衆が、阿難尊者から弥勒菩薩が変わり、場面も急転化する。この段は、「大悲摂化」と「現土証誠」の二段に分科されるうち、まず「大悲摂化」の一段で、「悲化段」とか「三毒・五悪段」、「浄穢欣厭」とも言われる段を窺っている。
これは、釈尊が大悲のお心で、仏眼に映る痛ましい人間生活の現実を説かれた段で、大きく、三毒段と、五悪段に分科されている。今月と8月で、五悪段を、三分科(総誡【三四】・五悪段【三五~三九】・釈迦勧説【四十】)して頂いていく。
その五悪段を概観すると、
総誡………大体において、五悪を去り五常につくべきことを述べ
【三四】
第一悪……無道にして仁を守らぬもの 【三五】
第二悪……義理に背いて実意のないもの 【三六】
第三悪……礼儀がなくてみだらなもの 【三七】
第四悪……無智でありながら、うぬぼれてるもの 【三八】
第五悪……恩もおもわず、教えを信じないもの 【三九】
などのものが、受けねばならない現在と未来の苦しみの報いをあげて、
釈迦勧説…最後に、再び前の五悪の過ちを説いて厭い捨てるべきことと、善を説いて、勤め守るべきことを勧められる。 【四十】
だいたい同じようなパターンの記述で、
五悪→五痛→五焼 に対して 五善(大善)が説かれれいる。
五痛とは、五悪をなすことにより、現世で受ける華報(けほう)。
現世の益たる「福徳」がそれに対する語である。
五焼とは、五悪をなすことにより、来世で受ける果報(かほう)。
来世の益たる「度世」「長寿」(上天)「泥●」が、それに対する語である。
その五善とは、
浄土宗では、 五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)であり、
浄土真宗では、五常(仁・義・礼・智・信)だとしている。
ところで、親鸞聖人は、直接こここの引用はない。単なる勧善懲悪の道徳生活、(儒教)に留まるのをおそれ、懸念されたとも考えられる。
また現存の梵本(サンスクリット本)、西蔵訳(チベット訳)、また『如来会』『荘厳経』にもはない。初期の『大経』には相当文がある。その初期の『大経』を参照し、翻訳の時点で、当時の中国的要素(儒学・老荘・神仙思想-たとえば「自然」を多様など)を加味し、人間悪の徹底した追求と因果応報、廃悪修善を強調して、涅槃の獲得を教説したものでないかとの推測もあるのである。
それでも、信後の世俗生活としてだけで味わうにでなく、本願を頂くべき者、そのお目当ての機、本願成就文でいう「諸有衆生」の実相であり、その内容は、まさに唯除の私と姿である。つまり、釈尊が、大悲のお心で、仏眼にうつった虚仮轉倒の私の姿そのものを明示してくださったと頂きたい。
ある参加者の方が、まさにこれは私の日常の姿であり、わざわざここで読まなくて、いやというほど知らされている、という意味のことを仰った。
でも、自分でそう知ったと思うのなら、それは自惚れにすぎない。ほんとうに悪を悪と知り、嫌というほど教えて頂けるのは、真実の仏智に照らされた我が身をお聞かせに預かったからである。つまり、これもまた仏説としてお聞かせ預かるからこそ、尊いのである。
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