力を頂く「真宗法座の集い」
5月の法座では、改めて信仰座談会のあり方、その難しさを考えさせられる出来事が続いている。一々の詳細には触れないが、永代経法座のご満座で感じたこと、広島や輪読での座談会での出来事、東京支部で起こっている問題と、一般寺院布教で感じさせれらたこと、さらには真宗カウンセリング研究会で読み始めた『育ち合う人間関係』など、法座の原点に立ち戻って、法座での「伝え方、聞き方」、特に1対1よりも座談会(グループ)でのあり方を考えさせられるような出来事が立て続けに起こっているのである。
おかけで、少々疲れ気味ではあるが、このタイミングで「真宗法座の集い」を迎えたことは、とても意味があるように思えた。この法座は、当初から、少人数で、固定した顔ぶれで、継続した座談会をめざしている。それも、一方的な法話や先生中心ではなく、グループ分けも各自が自分の思いを大切にしながら分かれ、司会役も自主的に立候補する。そして、みんなで、よりよい法座をめざそうとする集いである。僕自身も、勤行の司会や法座のお世話も、人任せではく関わって動いていった。
そして、改めて思ったことは、やはり自分自身の気づきを大切にしながら、場に率直であり、また心を開き、飾らぬ自分自身で、ゆったりと座ることの大切である。それは時に、これまでにいろいろと学ばせていただき、いろいろな経験も積ませていただいたことである。 法話の聞き方にも要があるように、座談での関わり方、聞き方や伝え方にも、要があるのである。ただそれは、言葉で理解することではなく、経験を積みながら、地道に身につけていくことなのである。そういうお育てを長年いただいてきたということである。
そにれしても、今回の集いは、ゆったりとした雰囲気で、誰もがぼくの問いに呼応するように、座談会のあり方や、それに臨む姿勢を率直に語ってくれたことがうれしかった。座談の劣等生と自称する方が多かったが、それでも、それを自ら、素直に表明出来た時点で、それはもう劣等生ではないのである。
特に今回は、ぼくの思いを共有できる世話人や参加者がおられて、その方たちの3グループができたことも、心強かった。おかげで、場の安心が保たれ、とてもいい法座になったのではないか。
これからの僕自身の課題は、同じ志を持った同人を育て、共に学ぶことであるという思いを強くしたのである。道は半ばではあるが、これから何をなすべきかが明確になった意味でも、ぼくにとってもいい法座であった。
参加の皆様、ありがとうございます。楽しかったです。
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