広島支部法座~歎異抄第十二章~
先月の歎異抄第十一章に引き続き、第十二章を輪読する。学解往生の異義である。これは、今日においても、さらに増幅された根強い異義ではないだろうか。
もちろん学問、知識という問題もあるが、それだけでは学者や専門家に限定されてしまうので、「なんのために学ぶのか」は「なんのために聞法するのか」に通じる心だとお聞かせいただくことにした。
特に、本願に相応しながら、無碍にお念仏を喜んでいる一文不通の者に対して、「ただ念仏するだけではダメで、学ばなければ往生は不確か(不定)だ」と、いい驚かし、同行を混乱させることに対して、唯円さんは強い憤りを示されているのである。
そしてその異義の背景にあるのが、
名聞の心であり
利養の心であり
他勝の心であるというのだ。
法然聖人のいうところの、「法師に三つの髻あり」である。
つまり、熱心な、何事もよく知っているお同行だと褒められたいという名聞と、そして、そのこととで利益を得たいという利養、そしてなによりも、他の集いや先生のところで聞法する相手を、理屈や言葉の上で、言い負かして勝ちたいという勝他を目的として、聴聞しているというのである。
まさに、これは凡夫の私の姿ではないか。
では、なんのために学び、聞くのか。
「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏申さば仏と成る。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」
まさに、本願を信じ、念仏申さば、仏に成る。本願のお働きで、お念仏申す一つで、そして往生一定の身とならせてもらう以外に、浄土真宗のご聴聞はないというのである。それが、お釈迦さまや阿弥陀さまのお心に相応する道だという。そのことが、明かになるための聴聞であり、けっして、名誉や勝他のために聞くのではない。
でも、この勝他からおこる諍論の問題、かなり根深い。そのことを充分、ご承知で、この章では、聖道門の人との諍論を通して、一文不通の、愚者としての念仏者が取るべき態度も示されている。が、実際は、どうだろうか。わが身に問うてみたいもいだいである
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