寺院布教
大阪西成の本派寺院への出講させていただく。ぼくの立場をご理解いただいた上で、「信楽先生でも、華光のようなご法話でも」とお声をかけてくだされたのが、うれしかった。
昼座は、ご法話というより、ぼくがお念仏に出会うまでの歩みを話させていただいた。当然、父のことから起さねならない。隣接する浪速区は、父が生まれ育った地。お寺のJRの最寄り駅は芦原橋で、その周辺に実家があった。しかも、父は、商家の出身で、3月14日の大阪大空襲で罹災している。地域も同じ、高齢者の方の経験も同じで、しかももともとがお寺や僧侶でないのだがら、皆さんも共感的に聞いてくださり話しやすかった。そして、僕自身も、あらためて父の願いを考えさせていただいき、有り難かった。特に、ぼくが小学校5年生のお盆のある日。子供大会で見た海難事故や直後の夢などで、後生が不安でこっそり泣いていたぼくを見つけて盆参を止めてまでご法を説いてくださった。しかも、それは大人の方同様、真摯なご示談だった。子供であっても、ひとりの求道者としてぼくに向き
合い、「阿弥陀様が命を捨てて呼んでくださっているのだ。その阿弥陀様に飛び込め!」と、懇切丁寧に教示してくださったお心が、なんとも尊く、胸が熱くなった。
夜座は、一転、お参りの皆さんと、交流。死生学の藤井美和先生の大切なものを一つ一つ失っていくワークを行う。ただ、高齢の方には、大切なものを書くというだけの簡単な作業も難しいことがよくわかった。それでもそれが功を奏した。書くのが難しい方には、マンツーマンのインタビュー形式で、いろいろと聞くことがきた。毎日の勤行やお寺参りを大切にされているお言葉を、直接、お聞きすることができた。
そして、感想の分かち合いが大いにもりあがった。 ある方が「ひとつひとつ捨てていくと、無というのか、何も残らない。もしこのまま死んだらどうなるのでしょうか」と。この発言をきっかけに、日頃の皆さんがお考えになっている後生の問題が、次々と出できたのである。大半は、「地獄、極楽はあるのか」とか「死んで帰ってきた人はないので、何もなくなる」とか、逆に重体になったとき、亡き両親に導かれて、安心を得た体験とか、さまざま出された。やっと、「お浄土に生まれると聞いている」という発言から、では、どうやってというこたから、結局、日頃の生きざまが大事だという話しになってきた。が、ある人が「生きざまは関係ない。罪を犯したものでも、悪人でも救われると言われたが、どうですか」などと、皆さん、真剣に発言し、聞いてくださったのである。
ご意見の大半は、浄土真宗の上から見ると、稚拙なものも多かったが、正解は出さずに、ひとつひとつを受け止めて進めていった。ただ、なんのためにお念仏するのか。ご聴聞はするのは何を聞くのか。お寺は何のためにあるのかなど、これからにつながる点だけは、押さえておいた。
予想以上に盛り上がって、法座終了後も、世話役の片づけの後で、車座になって交流することができた。どうやら、これまでのお説教では、聴聞の要を明確に教示される方が少ないということであろう。その意味でも、大いに収穫のあった法座だった。
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