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2016年5月の20件の記事

還暦

  先日、姉の還暦祝いをした。

 父が還暦を迎えた時、その当時6月に1泊だった永代経法要のあと、同人の皆様が祝賀の集いをもってくださった。30年前のことだが、その前後の記憶は、けっこう残っている。ぼくは、まだ学生だった。

 それか、きょうだいが還暦を迎える年になることが、とても不思議だ。これまで、まったく考えたことはなかったけれど、父の還暦祝いの時、母は50歳だったと思うと、これもまた不思議な気分になる。いま、自分自身が、その年齢を超えている。でも、その頃は、父や母の年齢を意識したことはなかった。それが、自分もそこに近づきつつある。子供の目からみると、父も母もずいぶん大人だったきがする。

Img_4325 ぼくたち夫婦も、お相伴に預かって、御馳走をいただくことができた。母の前では、いつまでも、子供のままで甘えさせてもらっている。

 それにしても、京都はインパウンドの恩恵を受けている。夜の木屋町周辺は、外国人ばかりである。このお店もすべて外国の方ばかりImg_4303で、英語やら中国語が飛び交っていて、お客で日本人はぼくたちだけ。海外へも知られているお店とはいえ、びっくりである。でも、雰囲気が変わって、このままでいいのか心配もあるなー。

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ビワ

 5月だというのに、連日、真夏並の暑さが続いてる。京都は、4日連続の真夏日となった。道路上に設置された温度計が36度を示している(気象台は33度)。こんな状態が、もう10日ぐらい続いているが、朝晩は、まだひんやりしているので、寒暖の差に、からだついていかない。もしかすると、「これまでで最も暑い5月」ということになるのかもしれない。

Img_4327 暑さのせいか、会館の小さな庭のビワも、今年は早い。鈴なりの実がなっている。
 この木は、福岡のお寺の方からいただいたものだか、狭いところに、しっかり根を下ろしてくれた。
Img_4285 今年も事務所のTさんが、せっせと収穫し、味見して、おしいくなったところで、ご馳走になっている。

 また事前に、ビワの葉を自力整体の先生に提供していたら、お返しに自家製のビワの葉のエキスをくださった。葉っぱの毛を丁寧に歯ブラシImg_4286で、よく洗って、その後乾燥させて、それを刻んで焼酎につけこんだものである。

 他にも、コンニャクとビワの葉の温灸もしたことがあるが、最近は、もうすっかりご無沙汰。

 釈尊の時代から、ビワは万病予防の妙薬である。だから、寺院にはビワの木が多いそうだ。

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『沖縄 うりずんの雨』

最近、簡単に正解が出ず、葛藤さられるような秀逸なドキュメンター映画を続きて観る。テーマは、沖縄であり、天皇であり、ヤクザであり、クジラであり、認知症であり、そして世界経済とさまざまではあるが、ぼくたちが住むこの世は、白黒はっきりした単純ものではなく、各人のエゴがぶつかり合う、複雑で、矛盾だらけな多様な世界であるということが、よくわかる。ボチボチでも、少し映画の紹介をしていきたい。

まずは、『沖縄 うりずんの雨』

沖縄で若い女性が米軍関係者に殺害されるという痛ましい事件が起った。日本政府の抗議と、米軍の謝罪、そして再発防止に勤めるコメントなど、「またか」という既視感を覚えずにはおれない。なぜ、沖縄で、このような暴行や殺害の凶悪事件があとを絶たないのか。その根本を知るには、この映画を観れば教えられることばかりである。

米国人監督が撮った『沖縄 うりずんの雨』は、四部構成となっている。

第一部は「沖縄戦」。1945年4月1日から、12週間にも及ぶ沖縄地上戦で、沖縄の住民の4人に一人が犠牲となる戦場を、実際の米軍によるなまなましい記録映像に、元米兵、元日本兵、そして住民の立場の声を紡いで、その悲劇の実体に迫っていく。しかしこれは、戦争中のことではない。第一部が2004年に起きた沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件から始まるのが、興味深い。国際法を無視し、つまりは、いまだに日本(沖縄)がアメリカの属国である事実が浮き彫りになる。

そして、第二部は「占領」は、上陸直後から始まる米軍(米国)による差別的な沖縄占領政策の実態と、密集する米軍基地の問題。さらに、沖縄の人達の反戦・反基地闘争が描かれる。その後、第三部の「凌辱」、第四部の「明日へ」と続いていくのである。

 中でも驚いたが、第三部の「凌辱」である。
 戦闘中の読売村で起った強制自決事件と、その生き残りの女性へのインタピューが強烈だ。さらに、米軍による性暴力の実態と、中でも、県民規模での大規模な抗議行動のきっかけとなる1995年に、米国兵三名による小学生に対する集団暴行事件。その加害者である3名の米兵たちのその後をおいかけている。日本で服役後、米国に戻った3名のうち、首謀者は取材を拒否、もう1名はレイブ殺人事件を起して自殺、でも、1名の男が顔出しのインダビューで、その当時の状況を真摯に語っているのである。

 70年以上前、本土防衛するために捨て石して扱われた沖縄。戦時下は日本によって、そして終戦後からは、日米両国によって、差別されてきた歴史があるのだ。そして、いまもなお日本の安全保障という大義名分のもとに、その実態は何も変わらずに続いている。ところが、ぼくたちも、遠く離れた地の不都合な真実は、見ないふりを決め込んでいるにすぎないのである。胸が痛くなるが、それだからこそ、しっかり観るに値する映画である。

 余談ながら、親鸞聖人の御絵を背景に、ある方へのインタビューが続く。聖人なら、どうされるだろうかと考えさせられました。

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力を頂く「真宗法座の集い」

5月の法座では、改めて信仰座談会のあり方、その難しさを考えさせられる出来事が続いている。一々の詳細には触れないが、永代経法座のご満座で感じたこと、広島や輪読での座談会での出来事、東京支部で起こっている問題と、一般寺院布教で感じさせれらたこと、さらには真宗カウンセリング研究会で読み始めた『育ち合う人間関係』など、法座の原点に立ち戻って、法座での「伝え方、聞き方」、特に1対1よりも座談会(グループ)でのあり方を考えさせられるような出来事が立て続けに起こっているのである。

 おかけで、少々疲れ気味ではあるが、このタイミングで「真宗法座の集い」を迎えたことは、とても意味があるように思えた。この法座は、当初から、少人数で、固定した顔ぶれで、継続した座談会をめざしている。それも、一方的な法話や先生中心ではなく、グループ分けも各自が自分の思いを大切にしながら分かれ、司会役も自主的に立候補する。そして、みんなで、よりよい法座をめざそうとする集いである。僕自身も、勤行の司会や法座のお世話も、人任せではく関わって動いていった。

そして、改めて思ったことは、やはり自分自身の気づきを大切にしながら、場に率直であり、また心を開き、飾らぬ自分自身で、ゆったりと座ることの大切である。それは時に、これまでにいろいろと学ばせていただき、いろいろな経験も積ませていただいたことである。 法話の聞き方にも要があるように、座談での関わり方、聞き方や伝え方にも、要があるのである。ただそれは、言葉で理解することではなく、経験を積みながら、地道に身につけていくことなのである。そういうお育てを長年いただいてきたということである。

 そにれしても、今回の集いは、ゆったりとした雰囲気で、誰もがぼくの問いに呼応するように、座談会のあり方や、それに臨む姿勢を率直に語ってくれたことがうれしかった。座談の劣等生と自称する方が多かったが、それでも、それを自ら、素直に表明出来た時点で、それはもう劣等生ではないのである。

 特に今回は、ぼくの思いを共有できる世話人や参加者がおられて、その方たちの3グループができたことも、心強かった。おかげで、場の安心が保たれ、とてもいい法座になったのではないか。

 これからの僕自身の課題は、同じ志を持った同人を育て、共に学ぶことであるという思いを強くしたのである。道は半ばではあるが、これから何をなすべきかが明確になった意味でも、ぼくにとってもいい法座であった。

 参加の皆様、ありがとうございます。楽しかったです。

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浄土五祖伝を読む~道綽伝(2)~

  4月から、「浄土教祖師伝を読む」と題して、法然聖人の『漢語燈録』に収めれている『類聚浄土五祖伝』を講読を受講している。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-6dc3.html

  道綽伝に入って3回目。今回は、迦才の『浄土論』にある道綽伝を読んだ。
 迦才さまは、善導大師とだいだい同世代の方だか、道綽さまの主著『安楽集』について、その構成なども不十分であると厳しく指摘されているという。『安楽集』は、道綽さまが『観経』の講義をされる時の講義録をまとめたもので、『観経』の註釈書だと考えられているが、そうだと言い切れないのではないか、という異論も出されている。しかし、浄土教の教相判釈として聖浄二門を判決こそ、浄土経における偉大な教義上の発揮であるには間違いなく、後世に大きな影響を残すこととなった。

 ところで、『続高僧伝』では、七十歳で、一度、お浄土に還られかけた道綽さまだが、曇鸞さまのお導きで、蘇生(?)されて、その後は、すこぶる壮健となられ、乳歯まで生え、弁舌もますます巧となられたというエピードが出でいる。しかも、これが記述された時には、道綽さまは八十四歳になられて、まだご健在だという記されている。つまり、ご健在の時からすでに奇瑞を顕しておられたことがしられていたのである。

 迦才さまは『安楽集』には厳しくても、道綽さまの業績は高く評価されている。大業5年(609年)、四十八歳で、聖道門(涅槃経)を捨てて、浄土の業行-すなわち「一向専念 阿弥陀仏、礼拝供養相続無間」に専念されたこと(ただし、『続高僧伝』にある、玄忠寺の曇鸞大師の碑文に出会ったことには触れておられない)。そして大原などの三県では、七歳以上の道俗がみな称名念仏に勤しみ、念仏の数を数えるために小豆を用いるが、上精進のものは、なんと九十石をも数えたという。しかも、誰も西を向いて唾を吐いたり、小便をしたりしないどころか、西を背にして座ったり寝たり(お尻を向けない)もしなかったという。それほど、教化を受けた者までも、西方願生し、念仏相続されるほど、念仏の教えを弘通されたのである。
 
 そして、貞観十九年(605年)四月二十四日に、八十四歳でご往生される。白雲がたなびき、浄土から三筋の光が届いてきたという。それは火葬中や墳墓に埋葬する時も同じで、紫雲がたなびき、五色光が三筋の光があらわれるなどの種々の奇瑞を顕れたというのだ。

 教義的問題ではないが、そのご教化や往生の有り様を、改めて学ばせていだだいた。

 

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『育ち合う人間関係』はしがき(2)

 さて、『育ち合う人間関係』~真宗とカウンセリングの出会いと交流~は、5章から成り立っている。

 A先生が、コンパクトに趣意をまとめておられる。お読み頂くとそれでいいのだが、そこを簡単に押さえておいた。

第1章「カウンセリングの手引き」

*西光師40歳の小冊子ながら初出版。『暮らしの中のカウンセリング』の原点。
*趣意-仏教を体現して生きるとはどういうことか。仏教本来の同朋精神を喪失し、無意識に 権威的、閉鎖的な態度が身についた仏教者が、カウンセリングに出会うことによって、仏教者(真宗者)の本来性を回復して、真の人間としての成長を遂げるプロセス。特に、仏教者に対して、真摯なカウンセリングの学びを促し、紹介するもの。
*執筆の背景-35歳-平安高校にカウンセリングルーム設立
 教師中心授業から生徒中心授業へ。
 36歳-「真宗カウンセリング研究会」創立

第2章「真宗カウンセリング」の成立

*西光師63歳-龍大教授時代の『援助的人間関係』に収録。2冊目の編著書
*趣意-人間疎外がすすむ現代にあって、「人間とは何か」という根本的な問いを提起し、それに応える二つアプローチ、一つは東洋思想を基盤として「真実に人間に成る道」を示した実践体系である仏道と、もう一つは西洋思想を基盤として「人間理解」を示した臨床的実践であるカウンセリング(心理療法)。この両者の出会いに焦点を当てて論考する。
*晩年には、「真宗カウンセリング」から、「DPA」へと展開する。

第3章「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」

*西光師67歳-本願寺派『ビハーラ活動-仏教と医療と福祉のチームワーク』収録
*趣意-ビハーラとは、田宮仁氏が提唱した「仏教を背景として終末期医療施設」の呼称。
 ビハーラ活動者の立場や自覚について、その自覚的主体とてしの実践を「真宗カウンセリグ」 と位置づける。

第4章「真宗カウンセリングの人間観」

*西光師69歳-中西智海先生還暦記念論文集『仏教と人間』収録。翌年の3月で龍大退職
*趣旨-仏教カウンセラーの立場とその自覚について論じる。
 藤田清提唱の「仏教カウンセリング」について。

第5章「浄土真宗の聞法と法座に関する一考察」

*西光師73歳-水谷幸正先生古希記念論文集『仏教教化研究』収録。
*趣意-仏教(真宗)カウンセラーの人間観やその態度に着目し、その仏教(真宗)カウンセラーを生み出す伝統的な土壌について、さらに「真実に人間に成る道とは何か」「共に育ち合う人間関係」の本質ないし創造について論じる。

 そして、最後に本書の趣旨として、「一人の専門家を養成より、万人の胸に人間として育ち合う心を育てよう」と呼びかける。
見せかけを捨て、自己のありのままを極めて大切にする。
「いま、ここ」の気づきを鋭くし、実感に溢れてくるところを仮になづけて「真宗カウンセリング」と名づけている。
人に誇れるものではないが、決して崩れない仏法を根底に、相互により深い人間成長・自己実現にむけて、謙虚に話し合い、分かち合い、深めあおうと呼びかけている。
と結ばれていく。 

 まずは、1年半かけて、第1章の「カウンセリングの手引き」を読んでいきたい。これは、西光先生の原点ともいえるものだ。でも残念ながら、というより悲しいことに、参加者は少なく、しかも熱意のある方もない。さっそく6月の担当者を名乗り出るひとがなかった。
 興味のある方、ぜひ、一緒に学びましょう。

*次回は、6月15日(水)夜7時~9時
*会場は、龍谷大学深草学舎の第6共同研究室です。

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『育ち合う人間関係』はしがき(1)

 今年度の真宗カウンセリグ研究会の月例会は、西光義敞先生の『育ち合う人間関係』~真宗とカウンセリングの出会いと交流~を輪読することにした。

 本論に入る前に、A先生が書かれた「はしがきにかえて」を読む。本書は、西光先生ご構成をされた論文が収められているが、未完のまま先生がご往生されて、その後を受けてまとめられたので、冒頭の「はしがき」もA先生が記述されている。

◎西光先生の生涯は、「人間とは何か」「真実に人間に成る道とは何か」「共に育ち合う人間関係」を探求し続けて、止むことのない歩みであり、命が尽きるまで「共に仏法を聞きましょう」との呼びかけられつづけた。

◎自ら究明し続けた道を「真宗カウンセリング」と名付け、「真宗『と』カウンセリング」の『と』に私は生き、生かされている。そして、「生きている仏教」「なま身の西光」「仏教は最も深い心理療法」などが、常の仰せ。

◎その西光先生の悲願は、仏教(真宗)とカウンセリング-相互の理解と交流を深めることが、使命。  仏教者にはカウンセリングへの関心、カウンセラーには仏教への関心を呼び起こし「共に育ち合う人間関係」を求めてやまなかった。

以上を踏まえて、本書に収められた5編の論文をコンパクトに紹介しつつ、そのころの西光先生の動向にも触れておられるので、研究会の皆さんにとっては、とても懐かしい場面が出てくる。本文を読みながら、ご往生約1ケ月前のDブレイジャー師との集いの写真を眺めていると、胸があつくなってきた。(つづく)

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5月の華光誌輪読法座

 5月の華光誌輪読法座。
 平日ということもあるが、参加者が少ない。すっかりこの法座も、常連のお身内ばかりになってしまった。それでもこの法座のひとつの目的である「誌上法話」をみんなで声をだして読みを、それをじっくり味わい、分かち合うというのなら、顔ぶれが同じでもかまわない。しかし、同じ顔ぶれである時ほど、原点に戻ることは難しい。車座に座り、自由に話し合う形式をとっているので、華光誌の内容と違う話題が中心になることも多い。今回は、別に雑談に流れたわけではないのだが、別法座での座談会での関わりについて話題が中心になった。お勧めの問題といえばそうだけれども、せっかくの誌上法話を深めるということにはならなかった。一方的な講義ではなく、自由に話し合うという形式を取っているので、ある程度、自由に個人的な話題を出し合うのも必要だ。誌上法話の内容以外に発言してはいけないとなると、息苦しくなって、誰も口をつぐむであろう。といって、一部の方だけが自分の話題をし続けられても、またしんどいこともある。
 要は、バランスの問題で、潤いを保ちつつ、かつ内容が深めていけるような輪読法座になればいいのだが、参加者の皆さんと、一番の問題は、常連の皆さんと、ぼくとの間で、この問題意識を共有できていないとこにあるのかもしれない。そして、最近、参加者が減少しているのは、このあたりに問題があるのかもしれない。一度、顔を出されなくなった方の、率直な想いをお聞きしてみたいものである。

 

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寺院布教

Img_4275   大阪西成の本派寺院への出講させていただく。ぼくの立場をご理解いただいた上で、「信楽先生でも、華光のようなご法話でも」とお声をかけてくだされたのが、うれしかった。

   昼座は、ご法話というより、ぼくがお念仏に出会うまでの歩みを話させていただいた。当然、父のことから起さねならない。隣接する浪Img_4273速区は、父が生まれ育った地。お寺のJRの最寄り駅は芦原橋で、その周辺に実家があった。しかも、父は、商家の出身で、3月14日の大阪大空襲で罹災している。地域も同じ、高齢者の方の経験も同じで、しかももともとがお寺や僧侶でないのだがら、皆さんも共感的に聞いてくださり話しやすかった。そして、僕自身も、あらためて父の願いを考えさせていただいき、有り難かった。特に、ぼくが小学校5年生のお盆のある日。子供大会で見た海難事故や直後の夢などで、後生が不安でこっそり泣いていたぼくを見つけて盆参を止めてまでご法を説いてくださった。しかも、それは大人の方同様、真摯なご示談だった。子供であっても、ひとりの求道者としてぼくに向きImg_4278合い、「阿弥陀様が命を捨てて呼んでくださっているのだ。その阿弥陀様に飛び込め!」と、懇切丁寧に教示してくださったお心が、なんとも尊く、胸が熱くなった。

 夜座は、一転、お参りの皆さんと、交流。死生学の藤井美和先生の大切なものを一つ一つ失っていくワークを行う。ただ、高齢の方には、大切なものを書くというだけの簡単な作業も難しいことがよくわかった。それでもそれが功を奏した。書くのが難しい方には、マンツーマンのインタビュー形式で、いろいろと聞くことがきた。毎日の勤行やお寺参りを大切にされているお言葉を、直接、お聞きすることができた。

  そして、感想の分かち合いが大いにもりあがった。
Img_4279 ある方が「ひとつひとつ捨てていくと、無というのか、何も残らない。もしこのまま死んだらどうなるのでしょうか」と。この発言をきっかけに、日頃の皆さんがお考えになっている後生の問題が、次々と出できたのである。大半は、「地獄、極楽はあるのか」とか「死んで帰ってきた人はないので、何もなくなる」とか、逆に重体になったとき、亡き両親に導かれて、安心を得た体験とか、さまざま出された。やっと、「お浄土に生まれると聞いている」という発言から、では、どうやってというこたから、結局、日頃の生きざまが大事だという話しになってきた。が、ある人が「生きざまは関係ない。罪を犯したものでも、悪人でも救われると言われたが、どうですか」などと、皆さん、真剣に発言し、聞いてくださったのである。

 ご意見の大半は、浄土真宗の上から見ると、稚拙なものも多かったが、正解は出さずに、ひとつひとつを受け止めて進めていった。ただ、なんのためにお念仏するのか。ご聴聞はするのは何を聞くのか。お寺は何のためにあるのかなど、これからにつながる点だけは、押さえておいた。

 予想以上に盛り上がって、法座終了後も、世話役の片づけの後で、車座になって交流することができた。どうやら、これまでのお説教では、聴聞の要を明確に教示される方が少ないということであろう。その意味でも、大いに収穫のあった法座だった。

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東京支部法座~四十八願に聞く~

 今回は4座の法話で、法蔵菩薩が因位の時、世自在王仏の所で起こされた四十八の大願について、第一願から順に四十八願までをいただくことにした。
といっても、丁寧に窺う願と、願名と、誰に願われたかを確かめ、現代語訳をいただく程度の願もあったが、それでも、すべての願を、その順序どおりいただいた。

 阿弥陀さまは、ほんらい色もなく、形もましまさず、言葉も絶えた世界から、名乗りをあげ、因果を示してくださった御方である。凡夫の私には、言葉となって届けてくださらなければ、けっして、その真実に触れることはできなかったのだ。ならば、まずは、その言葉、つまり本願として誓われたその中味を、言葉づらであっても理解させていただくことが大切だ。しかし、言葉を頭で理解するだけ終わっては、不充分である。その本願となって現れたきた背後にある、大悲のおこころを聞かせて頂かねば、ほんとうの意味は分からない。四十八願のひとつひとつを知らなくても、本願となって現れた大悲のおこころにひとつに出会わせていただけば、すべて事足りるものである。

 ならば、その逆もあるのではないか。その大悲のお心に出会わせていただいた上で、改めて1願、1願をいただくとどうであろうか。
 善太郎さんではないが、第一願ナムアミダブツ 第二願ナムアミダブツ、第三ナムアミダブツである。すべて、「お前ひとりを助けるぞ」の大悲のお心から起こっていない願はないのである。
 その大悲のおこころ、如来の作願のおこころを、1座目でいただき、
 2座目には、「浄土の人々に対する願い」として第1願から11願の11の願を
 3座目には、「あらゆる人々を救いとるための願い」として、第12願から20願の9つの願を
 そして、4座目で「浄土に生まれ仏となったり、他方の仏国土の菩薩方への願い」として、第21願から48願の24の願を、順序だてていただいた。

  48願をひとつひとつを、体系的に味わうのは初めてだという方が大半で、皆さんにとっては、48願を通して、具体的な阿弥陀様の願いに触れていただくご法座になったのではないでろうか。南無阿弥陀仏

「如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情を捨てずして
 廻向を首(しゅ)としたまいて
 大悲心をば成就せり」

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-534f.html

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/2-6c7f.html

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プラタナスの花

Img_4258_2晴天の中での東京支部法座。

会場に向う途中の公園は、好天に小さな子供連れの親子で、賑わっている。
サクラも終わり、フジやツツジも終わって、新緑の季節である。華やImg_4259_2かさはないが、青空に緑も美しい。ふと街路樹に目を向けると、葉っぱの合間に、花が咲いている。葉っぱと同じ緑色の者も多くて気付かなかったが、中に黄色に染まったものがあって気がついた。よくみると、どの木も花盛りなのである。ところが、誰も気に留める人はいない。

帰路、同人の皆さんとご一緒だったので、皆さんにお知らせした。そしImg_4260_2て、木の種類を教えてもらうことにした。しかし誰も、これまで花を見たことがなというのである。しかも、木の種類が分からない。「なんの木だろうね」と言っていると、やはりモノシリの方はいるものである。「プラタナスの種類ではないですか」。ええ、あまりにも身近すぎて分からなかった。目からウロコだImg_4264

さまざまな場面でいつも目しているのに、木の名前も知らず、しかも花が咲くのも知らずいたということである。

春が終わって初夏になって、もう花は終わったと思っていたけれど、こんな身近に咲いている花があることも、改めて教えられた。けっして華やかではないけれどね。

 プラタナスの枯葉舞う冬の道で
 プラタナスの散る音に振り返る

季節は違うが、北山修作詞の「風」が、しばらく頭のなかで鳴り響いていた。

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5月の伝道研究会~称名論~

安心篇も、安心の展開である称名論に入っている。

今夜は、称名=口称念仏の「念仏」について、浄土真宗の3つの立場を窺った。

今日の私達は、念仏というと称名念仏、つまり「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声に出して、口に称えるものだと思っている。しかし、仏教の中では、念仏が、声に出して口称の念仏となるのは、七高僧様なら、善導様の功績というになる。
もともとの念仏は、本来は、1、憶念念仏(憶念仏徳・散心の念仏)であり、
または、2、観念念仏(観念仏身・定心の念仏)であった。2、は『観無量寿経』の第九真身観の念仏である。
それに対して、3、称名念仏(称念仏名・口称の念仏)で、『観経』の下々品の念仏である。

その中でも、善導様は、第十八願を加減されて(本願加減の文)、「我称名号、下至十声…」と、第十八願の「乃至十念」、十声の念仏と明示して下さったのである。その善導様を師匠と仰ぎ、そのお心を受け継がれたのが法然様なので、法然様は、第十八願を「念仏往生の願」と名付けられている。

今日では、当たり前のように、念仏とは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声に出して称えることだと思っているが、実は、このような発揮がなければ、念仏=称名念仏のお心は分からなかったのである。

それが浄土真宗では、念仏を

1、名号(念=南無・仏=阿弥陀仏)
「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 新楽受持甚以難」(正信偈)

2、信心(念=憶念・仏=仏願力)
「憶念弥陀仏本願」(正信偈)

3、称名(念=称念・仏=仏名)
「称名念仏」(選択集)

というように、名号を念仏という時もあれば、信心も憶念として念仏とするともある。もちろん、称名を念仏ということもあるのである。

そしてこの名号-信心-称名の展開から、浄土真宗では、「信心正因・称名報恩」とするのである。
つまり、法体である「名号」のお働きによって、衆生の信中に印現して「信心」となり、それが衆生の口業に現れるが「称名」だから、どこまでも、信心正因であり、称名、信後の報恩行なのである。

など、いつもお聞かせに預かっている基本を改めていただいた。

次回は、6月1日(水)夜7時30分~10時で、称名論の最終回(たぶん)。

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「真宗法座の集い」ご案内

   5月21日(土)13:30~22(日)16:30に、第14回の真宗法座の集いを開催します。キャンセルがでて、まだ定員に達していません。遠近各地から、初参加者も含めていろいろな方が集っておられます。皆さんも、ご参加されませんか! 

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2016/detail/05/shinshuhoza2016-5.htm

 呼びかけです。

 もう14回目となりました。もともとは、大きな行事では、参加者も多く、また出入りも激しいので、分級座談会でひとりの方とじっくり関わるということが難しのが現状です。それで、人数を絞り、出入りもなくして、2日間、浄土真宗の原点に帰って、膝詰めで念仏讃嘆する集いを開くことにしました。法座の進行だけでなく、法座の運営も、みんなが少しずつ協力しながら進めていく、まさに浄土真宗のサンガを目指してきました。

 ところが、ぼく自身のところでも、最初は新鮮でワクワクした気持ちも、回を重ねるうちに、だんだんと馴れてしまってきています。頑張って呼びかけなくても、定員ぐらいの参加者が集まってくださるからです。でもそれだは馴れ合いの集いなってしまいます。参加者は初めての方もおられるわけですから、ここは原点に立ち返って、自分の言葉で、皆さんに呼びかけてみたいと思いました。

 というのも、最近、いろいろな支部法座で、信仰座談会が「苦手」とか「苦痛」、「法話は聞きたいが、座談は嫌」「どのように話したり、関わるのかが分からない」などという「信仰座談会アレルギー(?)」の方の声を耳にする機会が増え、気がかりになっているのです。確かに、大人数だったり、短時間の中では、充分に聞き合い、語り合い、関わり合うことは難しいものです。でも、単なる時間や人数の問題だけでしょうか。信仰座談会が苦痛だという方の中には、たとえば、
 座談会に不慣れだったり、その意味が分かっておられない方、
 座談会で傷ついて、なかなかその先に進めづらい方、
 自分が傷つくのも、他人を傷つけるのも怖いという方、
 関わりたくても、どうすればいいのかが分からない方、
など、さまざまな方がおられるような気がします。それで、信仰座談会の冒頭で一巡して一言を発した後は、どこか他人まかせ、先生まかせの時間で終わってはいないでしょうか。ある法座でのことです。かなり苦しんで、悩んでいる方に、「先生、なんとかてあげてください」と頼まれたことがあります。でも、浄土真宗では、先生がなんとかするのではないのです。求道者にしても、参加者にしても、どこかで、先生や会がなんとかしてくれると思ってはいませんか。これは、阿弥陀様のお力で開けてくる世界なのです。そのためにも、私達の役割は、少しでもそのお心をお伝えしていくことですが、どこまでいっても、阿弥陀様とその方自身の問題であることは、忘れてはをいけません。
 しかし、それでも、みんなが集う法座の縁をなくして、私が阿弥陀様に出会うことはないのも事実です。
 改めて、浄土真宗や華光会の原点は、讃嘆談合の場、信仰座談会にあることを踏まえ、未信者はもちろん、ご法を喜んだという方と一緒に、自分たちの法座を作っていきたいと思います。人数を絞った固定したメンバーが、少人数に分かれ、2日間、共に語り聞き合い、聞法しましょう。

 ところで、今年も時間の関係で、司会者研修会が開けません。司会者や他者と関わりたいと願う方には、生きた実践の場となります。世話人の自薦も大募集です。

「聞思して、遅慮することなかれ」(親鸞聖人)

 皆さんの勇気ある一歩をお待ちしております。 合掌 

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広島支部法座~歎異抄第十二章~

 先月の歎異抄第十一章に引き続き、第十二章を輪読する。学解往生の異義である。これは、今日においても、さらに増幅された根強い異義ではないだろうか。

 もちろん学問、知識という問題もあるが、それだけでは学者や専門家に限定されてしまうので、「なんのために学ぶのか」は「なんのために聞法するのか」に通じる心だとお聞かせいただくことにした。
 特に、本願に相応しながら、無碍にお念仏を喜んでいる一文不通の者に対して、「ただ念仏するだけではダメで、学ばなければ往生は不確か(不定)だ」と、いい驚かし、同行を混乱させることに対して、唯円さんは強い憤りを示されているのである。
 そしてその異義の背景にあるのが、
 名聞の心であり
 利養の心であり
 他勝の心であるというのだ。
 法然聖人のいうところの、「法師に三つの髻あり」である。

 つまり、熱心な、何事もよく知っているお同行だと褒められたいという名聞と、そして、そのこととで利益を得たいという利養、そしてなによりも、他の集いや先生のところで聞法する相手を、理屈や言葉の上で、言い負かして勝ちたいという勝他を目的として、聴聞しているというのである。
 まさに、これは凡夫の私の姿ではないか。
 
 では、なんのために学び、聞くのか。

「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏申さば仏と成る。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」

 まさに、本願を信じ、念仏申さば、仏に成る。本願のお働きで、お念仏申す一つで、そして往生一定の身とならせてもらう以外に、浄土真宗のご聴聞はないというのである。それが、お釈迦さまや阿弥陀さまのお心に相応する道だという。そのことが、明かになるための聴聞であり、けっして、名誉や勝他のために聞くのではない。

 でも、この勝他からおこる諍論の問題、かなり根深い。そのことを充分、ご承知で、この章では、聖道門の人との諍論を通して、一文不通の、愚者としての念仏者が取るべき態度も示されている。が、実際は、どうだろうか。わが身に問うてみたいもいだいである

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母の日

Img_4267 母の日、今年はバラを贈った。

 今年の母の日は、いつもとは様子が違うように思う。昨年、60年以上寄り添ってきた父が亡くなったのだ。母にとっては、介護などの肉体的な苦労からは解放されて楽になった部分はあるが、精神的には、かなり寂しいものがあるだろう。おりおりの言葉や態度から、母の胸中を察するに余りあるImg_4268。特に、母自身も高齢者となり、からだが不自由になっていることからも、ひとりとなった心細さは一入であろう。

 それでも、「こんなことには負けてられんしなー」と、念仏者として前を向いて歩みを続ける姿勢には、わが母ながら敬服するばかり。

 「お母さん、ありがとう 南無阿弥陀仏」

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日野の法界寺

 Img_4233_2竹田の安楽寿院をあとに、日野の法界寺に向う。https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000206
 これで何度目だろうか。親鸞聖人のご誕生のご旧跡である。今年9月の聖跡巡拝でも、隣接する日野の誕生院と合わせて拝観予定だ。それでも、今回来たのは、51年ぶりに公開される仏様があるからだ。今回の特別公開の目玉(ポスターにもなっている)である、薬師堂のご本尊「薬Img_4201師如来立像」である。眷属である十二神将像と、日光、月光両菩薩も特別公開されていた。

 安楽寿院は人影もまばらであったが、ここは観光バスも押し寄せ賑わっている。混雑をさけるために駐車場が閉鎖されていて、困ってしまった。

Img_4202_2 ご承知のように、ここは親鸞聖人の故郷、日野家の里である。この法界寺も、親鸞様の曾祖父にあたる日Img_4235_2野資業が創建した日野家の菩提寺である。だから、親鸞様のお父様やお母様の墓所でもある。今回、初めて知ったが、親鸞様の末娘の覚信尼公の墓所でもあるのだ。今日は、参拝できなかったが、次回には、ぜひ御参りしたいものだ。

Img_4211 さて、国宝の阿弥陀堂は、平安時代、藤原氏の全盛期の時代のもので、屋根は檜皮葺の周囲に庇がつけられ、外からは重層建築のように見える趣のある建物だ。
 安置されるでのは、国宝の阿弥陀如来座像Img_4212である。宇治の平等院に近い典型的な定長様で、丈六の阿弥陀様で、弥陀定印を結んでおられる。丸みのあるお顔は幼子のように微笑ましく見える。向背の浮き彫りも有名だが、暗くてよくみえないが、今回は、懐Img_4215_2中電灯で照らしてもらいながらみせていただいた。その阿弥陀如来を取り巻くように、天人の壁画が描かれている。また、四方の柱にも極彩色の諸尊が描かれているのが、日があたる側の柱から窺うことができた。この阿弥陀様を、幼き日の親鸞様が拝んでおられたと思うと、一層の感慨がある。

 法界寺は、別名「日野薬師」と呼ばれて、安産と、授乳の御利益があっImg_4228_2て、古来より薬師信仰の盛んなお寺である。阿弥陀堂のお隣が重文の薬師堂。秘仏の薬師如来が安置されて、実に51年ぶりに公開されるとあって、多くの方が参詣しているのだ。
 Img_4226_2日頃は立ち入れない薄暗い内陣に進む。左右に6体ずつの十二神将像。薬師如来の眷属である。鎌倉期の作品らしく、こぶりながらも勇ましく躍動的なお姿をしている。それぞれ十二支と関連させられていて、その頭には干支が刻まれている。それで、拝観する人達は、みんな自分の干支の神様を探しているのが、面白かった。肝心のご本尊は正面から見えない。内陣の裏手に回って、厨子の仏様を横から拝ませていただく。高さは80センチほどで、それImg_4208ほど大きくはない。横顔も、物静かなやさしいお顔だちだ。白木の像らしいが、衣文に、金箔による截金(きりかね)文様が描かれていて見事だった。前には、日光、月光の両菩薩がお立ちであった。写真は、ここで。
http://www.asahi.com/articles/ASJ4G5648J4GPLZB00S.html

  これでもう見納めだと思うので、もう一回りして、十二神将と薬師三尊を拝ませもらった。薬師様の前(正確に横で)ご夫婦で、盛んにお経をあげておられる方もあった。お庭も、背景のお山も、ちょうど新緑の季節で、緑のグラデーションが美しかった。 駐車場に手間取ったこともあったし、特別拝観は4時で終了ということもあって、すぐ近くの善福寺には行けなかったは、残念だったが、2つのお寺だけ充分に堪能することができた。

 秘仏の薬師如来像は拝観できませんが、9月の聞法旅行で拝観します。
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竹田の安楽寿院

Img_4161  GM10日間、京都の非公開文化財を特別公開があった。
  ttp://www.kobunka.com/topics/pdf/hikoukai_h28spring_leaf.pdf

   毎年、春と秋の年2回の恒例行事だが、東寺や知恩院のような有名Img_4162_2観光寺院のお宝だけでなく、日頃は社寺自が非公開のお寺などが公開されることもある。今回は、伏見区を中心した南部の社寺が多くて、ぼくも聞いたこともないお寺がImg_4184_2含まれていた。その中から、近所の安楽寿院と、51年ぶりに薬師如来の扉が開かれた日野の法界寺を訪れ、時間があれば、善福寺にも行く予定にした。
 Img_4164_2安楽寿院にも法界寺にも、有名な阿弥陀如来像があるからだ。

 まずは、会館から3キロほどの南にあるImg_4167_2竹田の安楽寿院へ。
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000011
  この近くをいつも通るのに、あまりにも近すぎImg_4185_2て、未見のお寺の一つである。子供のころは、田んぼやネギ畑が広がるのどかな地帯で、昔の近鉄電車からは、近衛天皇陵の多宝塔が見えていたような記憶もある。それが、今では近鉄と地下鉄の乗り入れ口で、名神と阪神高速も交差する交通要所となっている。しかし、一方幹線道路を入ると、まだこんなお寺や御陵が広がっている。

Img_4194_2 鳥羽上皇の鳥羽離宮の一角に、平安時代に開かれた皇室ゆかりの寺院だ。同じように非公開文化財を公開している城南宮にも近い。今では、ごく普通の小さなお寺に見えるが、もともとは多くの荘園を有する大寺院で、戦火などの影響で衰退するも、豊臣Img_4187秀吉の庇護をうけ、徳川政権にも護られて発展していく。今回その面影を残す、天皇の綸旨や秀吉や徳川歴代将軍の朱印状などが多数展示され、また幕末には鳥羽、伏見の戦いでは総陣地となったことから、合戦の記録も残されていた。他にも江戸期の十二将の屏風も公開されていImg_4186た。日頃は非公開の小さいが趣のある建物とお庭を拝観させていただいた。ただ建物内部もお庭も、もちろん宝物も写真撮影は禁止である。

Img_4169_2 宝物館には、鳥羽法王の念持仏だといわれ胸に卍が刻まれた定印の阿弥陀如来像が安置されていた。思ったよりも小さかったが、穏やかな表情と、均整のとれた体躯の阿弥陀様が、静かにお座りになっておられた。小さな宝物館には、他にも普賢菩薩画像や阿弥陀二十五菩薩の来迎図などの重要文化財も多数展示されていた。

Img_4199_2_2 その庭に平安時代の石造三如来像が安置されていた。阿弥陀三尊は京都国立博物館に寄託されているので、ここは薬師と釈迦如来の三尊仏である。
 また、お寺にゆかりの天皇の御陵が隣接している。 慶長伏見大地震で倒壊し、豊臣秀頼によって再建された近衛天皇御陵の多宝塔が、堂々と立っている。鳥羽天皇の御陵もある。今回は、訪れなかったが有名な白河法王の御陵もすぐ近くだ。鳥羽御陵の隣には、いまは特養施設が立っていたが、その一角に、五輪の塔が立っている。一見、なんの変哲もない石塔にみえるが、鎌倉期の銘が入った重要文化財である。この地でのさまざまな歴史の変化を見てきたのであろう。なんでもない石や建物が、実は歴史の証人だったり、とても由緒のあるものだったりするのに、今ではあまり人知れず、さりげなく立っている姿が印象に残った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%A5%BD%E5%AF%BF%E9%99%A2

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    ↑ 近衛天皇御陵の多宝塔
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    ↑鳥羽天皇の御陵    ↓重文の五輪塔
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5月の聖典講座~三毒段~

『大無量寿経』の講義も、主聴衆が阿難尊者より弥勒菩薩に変わり、場面も急転化して「釈尊の勧誡」(お釈迦様のお勧めと誡めの説教)が始まった。本段はさらに、「大悲摂化」と「現土証誠」の二段に分科されるうち、まず「大悲摂化」の一段で、「悲化段」とか「三毒・五悪段」、「浄穢欣厭」とも言われている。大悲摂化は、釈尊が大悲のお心で、その仏眼に映る痛ましい人間生活の現実をありのままに説かれて、仏法をお勧めになる段で、さらに「三毒段」と「五悪段」に分科される。

 前回から三毒段にはいっている。今回は、三毒段の愚痴から始まって釈尊と弥勒の応答、つまり、釈尊のお勧めと弥勒の領解を味読した。
 教義的な問題点云々というより、お釈迦様の目に映った私のありさまの現実と、そこを踏まえた聖者方(釈尊と弥勒菩薩)のやりとりなので、極力、そのままを頂き味わった。

三毒段の概観は、
(1)貪欲(求財の苦、有財の苦、無財の苦)
(2)瞋恚(怨憎会苦、愛別離苦)もう少し広く人間であることの悩み苦しみ。
(3)愚痴(1因果を信ぜず、2親子代々邪見を相続し、3無常を覚らず、4そして仏道を失い、5ますます恩愛に縛られ、6悪を造って苦しでいく)
と最後にまとめがある。

 そして、以下、釈尊-弥勒、釈尊-弥勒の問答が続いていく。
 まず、三毒の厭うべきことを述べ終え、安楽国を生まれるように願えという釈尊の勧めを受けて、弥勒が領解を述べて、如来の御恩を喜ばれる段。
 さらに、再度、釈尊は、弥勒菩薩のまことの行と、仮の行とをほめ、生死を厭い、疑いを滅して浄土往生せよとお勧めになる段があり、最後に弥勒が重ねた懇ろなご教化を喜ばれるのである。

 でも、仏眼に映った痛ましい現実はこれで終わらない。釈尊は、さらに五悪段で、ますます仏法に背き暴走する私達の痛ましいありさまを、これでもか、これでもかとお説きくださるのである。

 次回は、6月5日(日)1時30分~5時
 五悪段の第1回に入ります。奮ってどうぞ

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新緑

Img_4118_2 世の中は、GMの後半戦に入ってた。

 GM中は、事務所はお休みなのだが、逆に会館を空けることは難しい。法座終了後は、後片付けの業者の来館や、感想や問い合わせの電話もImg_4144よくかかる。すぐに聖典講座があるので準備もせねばならない。

 その合間を縫って、ひと時、自転車で梅小路公園に出かけた。水族館に続いて、京都交通博物館がオープンして、ずいぶImg_4138んと賑わっているのだが、夕方ということもあって、緑地公園でのんびいり過ごすことができた。

  永代経法要も、その前後もいImg_4159ろいろあImg_4135って疲れた。大きな法座のあとは、さまざまな思いが去来する。精神的にも疲れました。 

 新緑がまぶしい。芝生の上で寛いで、お茶を呑んでリフレッシュ。
1時間ほど日光を浴びただけでも、少しは気分転換。
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永代経法要

 GWの3日間、永代経法要が営まれた。
 
 連休中で日が良すぎて、全日程ご参加の先生はなかったが、それでも6座の法話のうち30代の先生方が3名、法話デビューの方が1名と、若い先生方が中心となってくださっている。それでも、どの先生方のご法話も尊くお聞かせいただいた。信仰体験発表も、それぞれの方に特色があって、人によっては、紋切り型ではなくて、かなり異色感があってよかった。

 分級座談会でも、お念仏を喜んでくださる方もあった。

 尊いご縁であったが、終わったあとで、ご法のお勧めという点でも、参詣の同人の方々のありさま、変化という観点からみても、いろいろと考えさせられることも多かった。疲れもあるが、なとなく落ち込み気味で終わった感がある。まだ充分にまとまっていないが、ぼちぼちと触れていきたいものだ。

 ところで、昨年の永代経には、父は元気だった。すかり忘れていたが、昨年は、こんなことがあったのだ。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-fc65.html

 分級座談会のお言葉は、最後のご説法でもありました。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-d975.html

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