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「鈴木大拙研究の諸相」

恩師の口癖に「田舎の学問より京の昼寝」というのがあった。
こんな時は、そう思う。といっても寝ていたのでは、講演が聞けないので、福岡のYさんも誘って、東京大学から、京都の国際日本文化研究センターに移られた(今は、名誉教授)末木文美士先生の公開講演会へ行く。末木先生の講演を聞くのは3回目だが、鈴木大拙師のテーマは初めてである。

Img_3923金沢の鈴木大拙館で、案内チラシを見たのがきっかけだった。会場は、大谷大学で、当然、講堂だと思い込んでいて間違ってしまった。30名ほどしか入れない会議室で、講師も同じテーブルに座っての、講義というより円卓会議のようである。参加者の2割ほどは白人で、英語でのレジュメも配られている。

大拙師は、長らく大谷大学の教授(哲学や仏教学)だった関係で、その大拙氏が設立した東方仏教協会が、今回の主催となっている。
大拙師の没後50年を迎えて、これまでの研究と、再考がなされているという。
Img_3924直接の門下生に、肯定的な研究者に、批判的な研究者、そして新しい動きの紹介があった。

大拙師の評価が難しいのは、彼がさまざまな面持つ、その多重性にあるという。
たとえば、欧米からみた大拙像と、日本からみた大拙像には、ギャップがある。そのギャップがあるからこそ見える一面があるのだ。
たとえばであるが、禅の大家ではあるが、禅師というわけではなく、かといって、研究者と括ってしまえない。実践者であり、研究者であり、(特に欧米では)伝道者である。かれは、欧米での最初の大乗仏教の説明者として位置づけられている。禅とかいたが、同時に、浄土(念仏者)ともいえなくもない。即非の論理ではないが、禅と念仏、体験と理論、普遍的でもあり、日本的でもある。戦争協力者として批判される一面もあれば、ノーベル賞にノミネートされる一面もある。まさに「肯定でもあり、否定でもあり、肯定でもなく、否定でもない」。両者が統合されるようであり、また断絶されているものでもあるのだ。いわば、今日のような「みんなが一つに溶け合っている」という生ぬるい思想ではなくて、矛盾した緊張感がありながら、同時に融合されていくのが魅力だというのである。
また、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」の「一人」と、禅の「一無位の真人」の「人」(にん)こそが、両者を結ぶ架け橋になるとのことであった。
久しぶりに『日本的霊性』を読む返してみたいと思った。が、ぼくの書棚には岩波文庫のものしかないが、文庫版や全集ではなく、「完全版」を見ないと、真の意味での霊性論は語れないというのであった。

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