生老病死か、老病死か
3月末のことだが、関西の美術館と博物館の無料パスで、龍谷大学ミュージアムの平常展に行った。
「仏教の思想と文化・インドから中国」と題されるように、インドで生まれた仏教が、シルクロードを経て、中国から朝鮮半島、そして日本へと伝わるまでの仏教2500年の歩みを、大きく「アジアの仏教」と「日本の仏教」に分けて通覧している。そんな広くない限られたスペースで、あまりに広範囲な内容なので、かなりの部分を解説で補いながら、あらあらの総花的な展示になっているはいたしかたない。ひとつひとつは面白いものもあるが、解説や写真だけで実物の展示がないものもある。それでも、一般的にみれば、仏教の誕生から日本で花開く各派のものの大要は、なんとなくわかる仕組み。
でも、どうしてもいただけないことがあった。冒頭に「仏教とは何か」のパネル解説である。そこに、仏教は、人間として避けられない「老病死」の根源的な苦しみを現実として受け止めて、それを超えていく道を示されたということが書かれていた点に、引っかかった。別にその要旨ではない。苦しみを、「老病死」と限定しているところである。しかもこの言葉が、2度も出てきている。どうやら「生」は意図的に抜かれているようだ。実は、「「生老病死」の四苦ではなく、「老病死」の三苦の言葉は、80年代に出された前ご門主の教書(消息)に同じ問題があって、そこを鋭く指摘くださる先生があり、感銘をうけたものだ。
仏教は、「生老病死」の四苦を、人間の苦しみの根源と見ている。確かに「老病死」の苦は、いまの私達、誰もが共感する苦しみである。それに比べると、「生苦」(この場合は、生きるではなく、生まれてくる苦しみ)は、今日の世相には相反するものだ。無条件に、生は肯定されていて、出産のたいへんさは語られても、「生苦」は無条件に、いのちの誕生の喜びへと還元されているのだ。もし世の中に迎合しなければ、仏教は伝わらないとお考えなら、それは悲しいことだなー。
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