4月の輪読法座~法座にかけられた願い~
4月の輪読法座は、0先生の「巻頭言」「法座にかけられた願い」を読む。
阿弥陀さまは、蓮華座に立って、私達に呼び詰め、招き詰めで、待ち続けてくださっている。
お釈迦さまは、草座(吉祥草)の上で、お悟りを開かれて、その弥陀の本願をお説きくださった。
では、私達は、何に座して聞法しているのか。
私達は「法座」、つまり法の座に座らせてもらっているというのである。
その法座は、如来さまの願力の働きから起ったことに間違いない。
でも、それだけでは凡夫に伝わらないので、具体的な形となって届いてきている。
まずは、聞法の場である法座の会場(会所)となり、法座を開いてくださる施主となり、招かれた知識(先生)となり、そしてお勧めくださる朋同行や共に聞法くださる法友となってくださるのてある。
当たり前ことで何とも思っていないが、当たり前のものは何ひとつないのてある。どんな小さな家庭法座あっても、それが開かれるまでには、そのようなさまざな方のご縁が整って、初めて私が座ることができるのである。
以前、増井先生から、「法座が開かれる所は、如来さまのお命が捨てられてた御聖跡だ」と聞いたことがある。釈尊の娑婆往来八千遍の間に、芥子粒ほどの隙間なく、そのお命が捨てられているというのであるから、その身を捨てたお徳によって、その場に法の華が咲くのである。
私は、如来さまのお命の上に座りながら、座布団を敷き胡座をかき、足が痛いとイスに座り、暑いと冷房、寒いと暖房と、わが身が楽に聞けることしか考えていない。
にも関わらず、私がその法の場に座るご縁を、如来様はあの手この手でご方便くださり、ずっと待ち望んでくださっているのである。そして、「よく参ってくれたなー」と喜んでくださり、さらに「この難信の法をよく聞いてくれたなー、わが善き友よ」と、そんな私をおほめくださるのである。すべて如来の本願力のお働きであるのにも関わらずにだ。
勿体ないことである。南無阿弥陀仏
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