『大無量寿経』の講義も、丸二年間、20回が終わり、三年目にはいり、「釈尊の勧誡」が始まった。
上巻では、序文のあと、正宗文(しょうしゅうぶん)に入って、「如来浄土の因果」(因=法蔵菩薩が「苦悩の衆生を救おう」と、五劫思惟し、四十八願を建て、果てしない歳月を経て【四~九】、果=自ら光明・寿命無量の 阿弥陀如来となりたまい、この上ない浄土を建立される【十~二一】)が説かれ、
下巻では、「衆生往生の因果」(因=その浄土に、衆生はどのように往生するのか[他力での念仏往生と、自力の諸行往生]【二二~二七】、果=そして、浄土に往生した者に、どのような果徳が恵まれるのか【二八~三十】)が、詳細に説かれてきた。
そして、今回より、主聴衆が、阿難尊者より弥勒菩薩に変わり、場面も急転化して、「釈尊の勧誡」(お釈迦様のお勧めと誡めの説教【三一~四六】)が始まる。
本段はさらに「大悲摂化」と「現土証誠」の二段に分科されるうち、まず「大悲摂化」の一段で、「悲化段」とか「三毒・五悪段」、「浄穢欣厭」とも言われる。
まず、大悲摂化は、釈尊が大悲のお心で、その仏眼に映る痛ましい人間生活の現実をありのままに説かれた段である。「三毒段」と「五悪段」に分科されるが、今回の三毒段は、さらに細かく、(1)総説【三一】・(2)三毒段【三一】・(3)弥勒領解【三二】・(4)釈迦勧説【三三】に四分科されるのである。
そのうち、(1)総説では、前段までを受けて、浄土の聖衆方の御徳や智慧、そして国土の勝れたまを確認し、他力信心の者は、自然の働きで誰もが往き易い、。にも関わらず、人が無いことを歎き、その人間の現実の悲惨なありさまが、以下、詳細に述べられていく。
つまり、「易往而無人」の一言が大きい。この言葉以前、「易往」までの上来は(本願他力によって往き易いことを詳細に述べておられたが、それも終わり、「而無人」已下は、何故行く人が無いのかが詳しく述べられるのである。
それには大きく3つの理由が考えられる。今回の法座では、2つの質問をなしたが、まず、なぜ「人が無いのか」を考えてもらった。最近、巻頭言にも触れているので、皆さん、この点は、しっかりと押さえておられた。
柏原祐義師によると、次ぎの3点を挙げられている。
1)三毒五悪の難の故に「三毒五悪段」=『御消息集』二通
2) 仏智疑惑の難の故に「仏智疑惑段」=『尊号真像銘文』
『御文章』二-七通
3) 遇善知識の難の故に「流通分」=『浄土見聞集』(存覚上人)
そして、もうひとつ質問をした。これより以下、対告者(主な説教の聞き手)が、阿難尊者より弥勒菩薩へと変わる。古来より、二、三の理由をあげて、その意味を味わっているが、それは何故なのか。皆さんは、弥勒菩薩とは、どんな御方と聞いておられるのか? を尋ねてみた。こちもら、皆さん、いろいろと味わっておられたり、弥勒さんのことを知っておられるので、その理由を味わっておられた。
今は、ここでは省略するので、関心のある方は、ぜひ、通信CDで確かめてください。
次回は、5月5日(祝)1時30分~5時
今回と同じく、三毒段で、愚痴から始まります。
奮ってどうぞ。