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東京支部法座~歎異抄をいただく~

三月の東京支部法座は、講習会と重複をするが、歎異抄をいただくことにした。
2日間で、第十一章、第十二章を二つの要点だけをいただき、別に法話も二回考えていたが、いろいろと深いりして、時間が足りなく、この二章だけで終わったしまった。いつものような法話-座談という形式ではなく、最初から、車座になり、質問や問いを発しながら、また皆さんからの疑問に答えるという形で進行していった。

皆さんにとって、数あるお聖教の中でも、正信偈と並んで、『歎異抄』は、親しみがあるお聖教だ。だから、歎異抄は、一通り目を通したことがあるという方も多い。またしばしばご法話でも、取り上げているので親しみがあるようだ。しかしである。それは、前半の聖語篇(唯円房の耳の底に残る、聖人のお言葉)が中心で、後半の異義篇は、目を通しても、サーッとしたものでしかないという方が大方だった。それに、前半に比べると、長い。前半1~10章よりも、後半の12章と13章の2章だけの方が、長いのである。今回も、11章と12章を続けて、何度か声に出して読んだが、「古文の勉強のようで、難しい」という声もあった。内容も、いささか込み入っている。

第一、一見、今日の異義や異安心とは、まったく別世界のように感じられる内容もある。
中には、これは今日では無関係なので、異義篇は、要約のみを掲載します、というある会の解説書を見たこともある。

しかしである。異義篇を顕すことこそが、唯円房の真意であって、聖語篇は、いわばその正しい目安なのだという説まであるのだ。
ならば、歎異抄の真意は、この異義篇にあるといってもいい。
その八章を大きく分けると、要は、「善・悪」にこだわるか、「智・愚」にこだわるかにあると見た。弥陀の本願とは、善悪も、智愚も超えた不思議な働きなのであるが、悪を廃して、善を求め、もしくは、愚を離れて、智を求めるこころこそ、仏智不思議を疑う正体ではないだろうか。

たとえば、今回の第十二章にように、学解往生の異義を読むと、単なる知的理解の誡めを超えて、私がなんのために聞法するのかが明らかになってくるのだ。それは、名聞(名誉欲、褒められたい、認められたい)でも、利養(利益、貪欲、設けたい)でも、また勝他(他を負かしたい、負けたくない)でもないのだが、私は、この3つの心で聞法してはいないか。
ご法座では、おとなしく、頭を垂れて聞いているが(所詮、人事としか聞いていない)、でも、実際に、噂話でも、華光の教えや集いを批判が耳に入ってきたらどうか。または、私のことではなく、恩師の増井悟朗先生を非難する声が聞こえてきたらどうか。しかもそれが、明かな誤解や間違った根拠から起こってきたらどうだろうか。きっと私は、我が正しいと反論せずにおれないだろう。しかも、それは、我がよしの心ではなく、それが弥陀の本願だとか、聖人のお心だとか、正論をきどるだろう。または、迷っている人達に真実を伝えねばならないというかもしれない。しかし、その腹底は、なんとか相手を打ち負かそうとする心だ。そうしないと、わたしの気持ちが収まらないのである。

しかし、法論のあることろに、必ず煩悩や謗法が起るというのが、聖人の仰せだといわれているのだ。そのことに対して、いやそれどころか、流罪になり、罪人となった聖人が、そのことを厳しく戒めておられるのにもかかわらずである。
そんな体質をもった人達が、私達の集まりにおられないだろうか。最近、気になるところである。

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