3月の華光誌輪読法座
70年前の悟朗先生、21歳の時の投稿である。同時に、記念すべきて初編集の華光誌でもある。時代は、終戦直後、まだ1年も立たない混乱期のこと。
「五劫思惟」と題されている短文たが、とても難解な表現で、皆さん、かなり困っておられた。華光の方でも、一読しただけではなかなか理解し難いだろう。仏教語といより、漢語表現だったり、いい回しが難しいのだ。
ただ、その中でも、老いた(まだ六十過ぎだが、当時ではすでに老婆だったのだろう)母親へ愛情を通じて、母と子の関係、弥陀の本願の親心と、それに対する衆生の反発や疑いの関係を語っておられる。吉田松陰の故郷への遺文に、
「親思ふ こころにまさる 親心 けふのおとづれ 何ときくらん」
を通じてのお味じわいでは、それぞれの思いを語られた。ぼく自身も、この歌には思い出があるが、そのことはまた触れるとして、今回は、悟朗先生とお母様の温かな関係が、まぶしいという声があった。そこから、子供時代に遡り、かなり具体的に親子の関係を語ってくださる方も多かった。親子の関係は、温かいものばかりとは言い難く、理想的な親ばかりでもない。虐待ではないが、貧困やつらい子供時代を過ごしたり、親に対する怨みや畏れなどの感情も含めて、かなり複雑なものがあることが話題になった。理想的であれ、複雑であれ、結局のところ、この世の中にあって、親子関係ほど緊密で、また大切で、そして難しいものはない。好意や憧れもあれは、反発や無視、軽蔑に反面教師もある。いずれにせよ、老齢期になっても、子供時代の親との関係が、いまでに影響を及ぼしているのである。
また、最後の「久遠の大悲招喚に感電」の言葉が、皆さんに響いたようで、特に、実際に、仕事中に、市電の高圧電流に感電し、九死に一生を得た方の話は、とても面白かった。実際に、体験がなければ、語れないことである。
○『療養と求道』「久遠の親を求めて」の最後に、
「獲信は、大悟徹底のような華やかなものではない。久遠の親に抱かれて、親の膝下で声をあげて泣く慟哭だ」
という文に突き当たって、再び念仏と共に、涙下る。げに親心こそ、親思う子の心の如何にかかわらず、思い続けたまえる、絶対のものなのではないか。○久遠の大悲招喚に感電し、五劫思惟の泣に当たるのである。
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし (『正像末和讃』)
次回の華光誌輪読法座は
☆4月13日(水)昼1時30分~4時30分
4月発行の華光誌の誌上法話と、聖教のこころを読みます。
平日ですが、奮ってご参加ください。
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