母の想い、子の想い
華光誌の作業もあったが、この4日間は、歎異抄のレジュメ作りに専念した。朝早起きしたり、夜遅くまで頑張って、なんとか前日の午前3時に完了。ちょっと凝りすぎたかとも思ったが、やればやるほど面白い。結局、自分のためである。
気分は、完全に明日の講義に向かっている。が、午前中には、用事を入れている。たいへんなことは、初めから分かっていたのだが、お断りしなかったのは、何か大切なご縁がうまれる予感もしたからだ。ただ、頭も気持ちも歎異抄モードなので、切り替えが難しかった。
来館者は華光同人の方ではない。が、先日のご法話を聞かれて、これまで子供たちに、大切な仏法のご縁、少なくとも自分が喜んできた念仏の教えについて伝えていかねばならないと思われたという。たえとば、ぼくなら、父や母から、後生の一大事の解決、親も子もない。一人一人が、阿弥陀様に会わなければ、一人またこの生死の苦海を迷い続けねばならないことを教えられきたが、そんなことも一度も話していないという。また、自分が死んだら、別に葬式も不要だと思っていたが、先日のご法話で、それではせっかくの子供たちの法縁の芽をつぶしかねないということに、初めて心を及んだというのである。
各地におられるお子さんが、その講習会の日時に、京都に集う予定があって、土曜日の午前中がよいとのことだが、ぼくも、その時なら時間はとれる。
お母様のお気持ちはよく分かったが、肝心なのは、お子さんたちがどう考えておられるである。もし、嫌々だったり、付き合いで引っ張られてきてのなら、逆効果になることも往々にしてあるからだ。案の定、3人でお出でになるのが、一人減っている。
まずはお母様のお気持ち、お子さんのお気持ちをお聞きするのが一番である。それだけで終わってもいいと思っていたが、予想外というか、まったく法話をなどを聞いたことがないという息子さんが、積極的で反応がいい。お母様の発言も、すこしズレ(法話の話題になる話が満載だった)ているところもあって、逆にその問いから導き出され、話しやすかった。
第13章の勉強を終わったばかりだったので、業縁ということに触れたり、そこから阿弥陀様の願いやその阿弥陀様のお目あてが誰にあるのかを聞いてもらった。うれしいことに熱心に聞いてくださると、こららも話しやすく、熱が入ってくる。気がつくと約束の時間を過ぎていた。
最後に感想を分かち合ったとき、彼は声を詰まらせて、目から涙がこぼれていた。
まだまだ聞法の緒ではあるが、子を思う母親の願いを通じて、阿弥陀様のお心のほんの一端でも通じたしたなら、こんな有り難いことはない。
いいご縁でした。
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