一周忌法要
昨年二月、五十歳で亡くなった方の一周忌法要に、豊岡市日高町で出向く。彼女は、子供大会に皆勤だったので、いわば幼なじみである。
お元気なときに、葬儀のご本人からたのまれたのが縁である。具合が悪くなられる前のことだったが、法名や葬儀、納骨のことなど、まだ40過ぎの元気なうちにすべて、自分で段取りされて逝かれた。何か予感があったのだろか。
今日の御参りは、姉妹や従姉妹の方が大半。だいたい子供大会にでたことがある方ばかりで、40代、50代が中心である。
一緒に勤行し、40分ほどのご法話をする。
浄土真宗の他力廻向の教えは、世間、いわゆる追善供養のための法事ではない。世間の常識からみても、意味が違って、亡き人をご縁として、私の後生をお聞かせに預かるご聴聞の機会なのだが、そう理解されている方は少ない。「南無阿弥陀仏」は供養のためではなく、阿弥陀様のわたしへの呼び聲であるという意味をお話して、お念仏を声に出してもらうこと、一緒に、お正信偈をお勤めしてもらうとこをお願いした。法名が、お正信偈から取られているからだ。そして、浄土真宗での法要の意義を中心に、ご法話させていただいた。とても真剣に聞いてくださった。もし、この法要がなければ、絶対に、ここで一同に関して、お念仏を申したり、法話を拝聴されることはなかっただろう。そう考える、亡き人のお働き、阿弥陀様のお力で、みなここに集ったのだ。亡き方を偲びつつ、共に阿弥陀様のご本願についてご聴聞させいただくことほど、尊いことはない。
それにしても、子を想う親心は深い。
嫁いだ身とはいえ、わが子を亡くされたご両親は悲嘆は大きく、その後、具合を悪くされて、父親は入院生活を送っておられる。1周忌の前に、葬儀があるかもしれないと心配されていたほどだ。通夜の席で、一言も発せられず、通夜振る舞いでも、一口も食べられずに、早めに、肩を落としながら退席されていかれた年老いた父親の後ろ姿が思いだされる。南無阿弥陀仏
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