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広島支部法座~地獄の話~

 先月の広島支部法座で、来月は「地獄の話をしましょう」とお伝えした。「地獄一定すみかぞかし」の言葉をめぐって、ご縁の浅い方から、極めて世俗的な地獄を認識されていたからだ。つまり、後生というより、生活の上での苦しみや悩み、こころの有り様を指して、地獄だと称するのが、一般的である。世俗的な生き方や考え方に毒されている私達には、三世因果や後生といった従来の仏教の考え方は、迷信やおとぎ話に思えて、素朴に信じることは難しいのである。

 しかし一方で、いくら科学や合理主義が第一でも、「死ねばしまい」「何もない」と簡単には割り切れない。そう単純なものでないので、考えないで先送りにするか、「天国で安からに」とか、「風」になるとか「星」になるとか、「先祖」となるとか、なかには、大学生が、「背後霊となって子孫を見守る」などという、それこそ迷信・俗信を安直に信じていくのである。

 今日の浄土真宗の最大の問題点は、時代に迎合するあまりに、本気で「三世因果」や「業道自然」の道理を説けないことだ。それでいて、上座部仏教でもなければ、実践(行)もしていないのに、困ったら、すぐ「本来の釈尊の教えにはなかった」などと古い文献を引っ張ってきて根拠とし、整合性があるかのように取り繕う。そんなことを言い出したら、浄土の教えなども成立しなくなるのだが、こちらは「釈尊の真精神に、すでにその萌芽がある」などと上手いことを言っている。

 結局、信じられるように、こちらの都合で教えを操作し、信じやすいように切り取ったり、都合が悪い部分はなかったことにし、現在の人達にも、スマートに、また現代思想にも合うようにしていても、ぼくには、それはしょせん、自分が納得するだけのごまかしであって、まったく魅力がない。

「私が死ねば、そのおのれ業の報いによって、たったひとり、自分の罪業が生み出した次ぎ世に出かけていかねばならない」という『大経』の釈尊のお説教を、そのままお聞かせに預かれるだけである。

 頭を下に足を上に、頭下足上で、真っ逆様に、真っ暗な世界を、二千年間、ただひたすら墜ち続けていくという。そのとき、悔・懼が交々襲ってくる。「ああ、しまった~」たという後悔と、驚怖に畏れおののく心が、交互に襲ってくるのである。もうその時では、手遅れである。
 

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