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勉強になりました

新年4日、町内からお悔やみの知らせがある。
今年度、随分、町内会の高齢者が亡くなられた。最高齢の105歳である。明治生まれの方の葬儀は、久々だと住職も話していた。

ご近所の本派のご住職がお導師である。声もよく、堂々としておられる。シーンと静まったホールで、多少の躊躇したが、一緒にお勤めさせていただいた。ところが、三奉請が始まると、一般の焼香が始まり、三奉請が終わるまでに一般焼香も終了。それから導師の焼香があり、その後に弔電披露があるという、変則パターン。

そして勤行のあと、10分間以上もご法話もあった。葬儀に法話があるのは珍しいが、内容も、今日の本派ならば、満点に近い内容だと思った。

一般の宗派では、中国で作られたお経によると、死に装束をつけて、六文銭(ここで大河の真田丸の話題も)で三途の川をわたり、苦しい死出の旅の末に、七七の審判をうけ、その生前の行いによって行き先が決まり、百ケ日で細々と修正される。そのために、その間に遺族は、娑婆にあって法事を営んで、死者に供養を施していくという。もちろん、諸説があるうちの一説。しかし、浄土真宗では、阿弥陀様のお力によって、すばらしい世界に生まれさせていただく。亡くなった故人も、すでに浄土往生されて、私達を導いてくださっています。

では、なぜ、真宗で葬儀や法事をする必要があるのか。亡くなった故人ではなく、生きている私が、いまの生きかたを見つめ、法事を勤めさせていただく。どこかで、亡くなった方と自分との間に線を引いてはいないか。でも、これが私の姿。無常は、今夜かもしれないし、明日かもしれない。いつ何どき、私にも死がやってくるかもわからない。そのことを、故人は、身をもって教えてくださった。だからこそ、自分自身がほんとうにいただいた命を精一杯生きているのか。そのことをしっかりと聞かせていただくために、葬儀や法事がある。

また、(浄土往生されているのだから)清め塩というものも、おかしい。私は、あれは気持ちが悪い。亡くなったおばあちゃんは、不浄ではない。死は悲しいことですが、けっして歎くことではありませんと。

まあ、ぼくの耳に残っている大要である。ご縁を作るという点でも尊いご法話だった。

でも、残念ながら、一番肝要のところがぼやけてくるのは、仕方ないことなのかなー。

「浄土真宗では、阿弥陀様のお力によって、すばらしい世界に生まれさせていただく」に間違いはない。がしかし、真宗の家に生まれた門徒ならば、聴聞もせず、お念仏も申さず、信心獲得もなくても、「阿弥陀様のお力によって浄土に生まれおられます」と言い切っていいのだろうか。「浄土真宗では」そうかもしれないが、「わたくし」のところではどうかを問わないと、生きた聞法には繋がらないなどと、終始、上から目線でした。

でも、新春からこんな形でご聴聞させていただくとは思ってもみなかった。

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