「本願力にあひぬれば」~大阪家庭法座~
例年3月に開かれる大阪支部のK家家庭法座だったが、今年は、昨年11月にご逝去されたK家のご長男の追悼法要、法供養法座として、1月に勤めさせてもらった。
葬儀の最後の添引和讃、「本願力にあひぬれば、空しくすぐる人ぞなき」のご和讃をいただきながら、世間一般(通仏教的)の中有界(中陰)、つまり死んでから、次ぎの行き先が決まるまでの死出の旅について、知っているようで、知らない。それでいて、皆さん、知らずにその準備をしているような身近なテーマを取り上げたので、楽しそうに聞いておられた。
でも「極悪、極善には、中有なし」とお聞かせに預かっている。私は、「本願力に遇わせていただく」ことがなければ、結局、空しく迷いを繰り返していくばかりである。この度、この今生で、南無阿弥陀仏に出遇い、長い迷いの打ち止めとさせていただく。中陰の法要は、故人の供養のためではなく、その縁者の死を通じて、私がこの本願力に出遇っていく、聞法の場なのである。
それにしても、今回の法縁、深い深い親の願いを感じさせられるご縁となった。
「本願力にあひぬれば
むなしくすぐる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし」
(扁額は、稲垣瑞劔師の「功徳大宝海」)
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