穏やかな修正会
昨年は、大雪の元旦で印象深かったが、今年は、対照的に穏やかな元旦で、ずいぶん温かい。
父が亡くなって初めてのお正月。子供たちもブラジルで、昨晩はスカイプで紅白を一緒に観たが、人数減って少し寂しい。
家族でお節をすませ、午後から修正会である。
参加者はそう多くはなかったが、地元の京都や大阪、奈良、滋賀の近畿圏だけでなく、九州、広島、福井、名古屋と、そして東京からの参詣者があったし、ご縁の新しい方もそれなりにお参りくださった。
「正信偈」(行譜)のお勤め。和讃はいつもの六首引ではなく、「現世利益和讃」15首を華光節で、皆さんと声を合わせて唱和した。
法話は、新年なので、軽くゲームから入った。頭の体操の定番である枠を出るゲームであるが、なかなかこれが難しくて、数名の方しか正解がでなかった。でも、これはあくまで導入。
「蓮如上人御一代記聞書」第1条をいただく。
「勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。
『道徳は、いくつになるぞ、道徳、念仏申さるべし』
実に、蓮如上人79歳の元旦のことで、道徳さんも70代のころのことである。
「かりもんは、いくつになるぞ。
かりもんよ、念仏申さるべし」
と、おひとり、おひとりのお名前でお呼びして、「念仏申すべし」の言葉を贈った。
ほんとうに、うかうかと年月ばかりを過ごしているけれど、念仏申す生活を送っているのだろうか。
しかも、蓮如様は、このあと、道徳さんに、数を頼む、わが力を頼み、いわば善い子になって仏様に功徳を振り向けて助かったいこうという自力の念仏を捨てて、阿弥陀様の本願力をたのむ一念でお救いに遇う他力の念仏に帰せよとお勧めになっている。その上の称名は、臨終の一念まで御恩報謝で、ただ「有り難いな、尊いな」と慶んで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と申すだけなのである。
「勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。
『道徳はいくつになるぞ、道徳念仏申さるべし』「自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。
他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさ、ありがたさと思ふこころをよろこびて、『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と申すばかりなり。
されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。」
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