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2016年1月の15件の記事

「本願力にあひぬれば」~大阪家庭法座~

Img_2832例年3月に開かれる大阪支部のK家家庭法座だったが、今年は、昨年11月にご逝去されたK家のご長男の追悼法要、法供養法座として、1月に勤めさせてもらった。

葬儀の最後の添引和讃、「本願力にあひぬれば、空しくすぐる人ぞなき」のご和讃をいただきながら、世間一般(通仏教的)の中有界(中陰)、つまり死んでから、次ぎの行き先が決まるまでの死出の旅について、知っているようで、知らない。それでいて、皆さん、知らずにその準備をしているような身近なテーマを取り上げたので、楽しそうに聞いておられた。

でも「極悪、極善には、中有なし」とお聞かせに預かっている。私は、「本願力に遇わせていただく」ことがなければ、結局、空しく迷いを繰り返していくばかりである。この度、この今生で、南無阿弥陀仏に出遇い、長い迷いの打ち止めとさせていただく。中陰の法要は、故人の供養のためではなく、その縁者の死を通じて、私がこの本願力に出遇っていく、聞法の場なのである。

それにしても、今回の法縁、深い深い親の願いを感じさせられるご縁となった。

「本願力にあひぬれば
むなしくすぐる人ぞなき 
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし」

(扁額は、稲垣瑞劔師の「功徳大宝海」)

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「真に一隅を照らすもの」~東海支部法座~

1Img_2749_22月に続き1月の東海支部は、栄のテレビ塔の近くの会場。

あらかじめ「真に一隅を照らすもの」と題しておいたが、説話部分には阿弥陀様も、後生も出てこない。冒頭は、伝教大師の「国宝とは何か?」から起して、一燈園の先生と余命のない不良少年との出会いの、いわゆる感動的な「いい話」である。もちろん、真に一隅を照らするは私の仕事ではなく、一隅で迷っている私を照らしてくださる御方は、阿弥陀様だということを、最後にお伝えしたかったが、これは物語のインパクトに取られて、あまり伝わっていないように思えた。

予想どおり座談会の反応はいろいろあった。教義的なご法話だとなかなか声がでづらいが、このテーマは、さまざまな反響がある。自分の問題としてご法を味わっていかれる方もあれば、「浄土真宗では、、」とばっさり切っていかれる方もあった。

なかには、「先生の意図はどこにあるのか。どう捉えるのが正解か」と、尋ねられた方があったのは、驚いた。ある会で聞いておられる方々である。正解を求めるのなら、このテーマは話さない。最初に断ったとおり、意図があるとすれば、正解Img_2754_2を覚えることではなく、さまざまな声があるが、その自分のところで感じたままを、できる限り自分に引き寄せて味わい、語り合ってほしいと思ったのだ。

その意味では、信仰座談会が活発だったのはよかった。しかし、だいたいが、不遇な境涯だったが、最後の出会いによって、合掌をして逝った卯一少年の後生を心配する声が多かった。が、誰も、「自分の後生は?」と問わないし、「自分は何のために生まれてきたのか」「ほんとうに『南無阿弥陀仏』と親の名前を呼んだのか」と、物語に沿って自分を問題とした声は、案外少なかった。
大半が、語として聞いて、その善し・悪しを話し合っていたような気がした。もう少し話し合いの時間があると、そこが深められたのかもしれなかったが、時間切れとなったのは、残念。

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カンボジアから無事帰国

  無事、カンボジア旅行から帰国しました。

その間、日本は大雪や記録的寒波やらで、出発や帰国時の心配をしましたが、大きな混乱もなく、おかげさまでいい旅となりました。

 カンボジアでは、最高気温が38度の日があり、強烈な日差しのなかで、かなり長距離を歩いたり、ハードな山道を歩いたりで、連日汗だくになりました。

 日本に戻ると、この寒波、寒さに震えました。北海道深川から参加の連れ合いの両親などは、寒暖差60度近くになるほど、、。

 今回は、もう少し楽な観光を予想したいましたが、いやいや、なかなかハードでした。

 ただ、豪華なホテルで連泊だったり、どの食事も、ビールも、日本人の口に合って、とてもおいしかったので、その点は、楽でした。それでも、ぼくは最後に下痢になって、日本に帰ってからも続いていますが(。>0<。)。

 これまでのインドや中国、シルクロードの仏跡巡拝と違って、勤行も法話も一切ありませんでした。それでも、さまざまな経験をさせてもらって、いろいろと感じることがあった旅でした。やはり、現地に立てみないと分からないこと、感じられないことが一杯ありますね。

 またおいおい書いていきます。

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大荒れ

穏やかな暖冬が一変。

日本列島が大荒れだ。

水曜日からのカンボジア旅行を前に、天気予報を見てやきもきしている。

前日の火曜日の夕方、連れ合いの両親と関空で落ち合う約束だった。
ところが、その日は、北海道は台風並の暴風雪で大荒れだというのである。

すでに、東京や東北は大雪で、交通もマヒした。その時点で、北海道は、大丈夫だというのだが、それでも、明日のことは心配である。今日(月曜)の夜に関空に到着する飛行機に空きがある。ただ、夜から欠航の恐れもある。いろいろ調べたり、夫婦で相談した結果、明日よりは、今夜がまだましだろうという判断して、急遽、もう1日前倒しして、京都にきてもらうことにした。

大急ぎで準備して、たいへんだったと思うが、どうやら千歳空港までは無事到着。
でも、そこからがわからない。いまはネットで運行状況がわかるが、かなり出発が遅れている。風が強まると飛ばなかったり、引き返す可能性もあるという。今夜からダメなら、明日は、もっと難しいだろう。そうなると、せっかくの旅行自体をキャンセルしなければならない。

やきもきしたが、深夜になって無事に到着。

ただ水曜日までは、大荒れの天気が続くようなので、皆さんが無事に集合し、また出発できるのか、少し心配だ、、、。

この世の中のことは、どんなに準備万端でも、決定(けつじょう)しないということだな。

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「それはそれとして」

報恩講のご法縁。

ご講師の先生方のご都合で、久しぶりにトップバッタで登壇する。

機法二種一具といわれる二種深信をお取次ぎ。他力回向の信相(すがた)であるので、信一念だけでなく、相続においても変わらない。ところが、最近、ご縁の浅い人のなかで、少しのこころの変化だけで、救われた、往生一定になって、もう地獄一定は卒業したような、軽薄な領解を耳にすることが気になっているからだ。

でも、伊藤先生いわく

「人のことは、ほっときなはれ」

なのであるが、ご縁がある人には、何かお伝えしたいと思いも強い。
もっとも往々にして、そんな人は、すぐにご縁がなくなる。「わが信やいかに、他が信はいかに」の信仰座談会が、怖いからである。

夜座の鈴木大拙師の「それはそれとして」のお話が印象的。

上(かみ)を今生事を殺さず、下(しも)で後生に転換する、お言葉である。

そう考えると、ぼくの言葉は、人を殺すかもしれないな。

伊藤先生、続けていわく

「まあ、いっぱい飲みなはれ」

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広島城と縮景園

Img_0995午前中、廿日市でのご法座までに時間があったので、広島城へ行くことにした。
ぼくは、これまで何百回も広島に来ている。もちろん観光のためでImg_1003はないが、それでも、原爆ドームや宮島などには何度も入ったし、すぐ近くのひろしま美術館に連れてきてもらったことはあるが、広島城は素通りだった。

爆心地にも近く、原爆で倒壊しているのImg_1023で、戦後の復興だ。未曽有の被害の中から、これだけのものが復興したことを考えると、やはり感慨深いものもあImg_1052る。
そして、お城の中を歩いて勉強になったことは、ここ広島が軍都であったことだ。大本が置かれたこともあったという。

また少し時間があったので、10分ほど歩いて、Img_1035縮景園へ。広島藩主の浅野家の別邸の庭である。
庭を散策するには、いい季節ではないが、日差しがあって、暖かだった。借景にビルは、興ざめだけれど、裏返せば、都会の中にあるオアシスImg_1063である。

でも、ここも原爆で壊Img_1086滅的な被害を受けている。そして多数の被災者が押し寄せて、多くの尊い命がここで尽き、埋葬されたというImg_1093案内板が、ひっそりと立っていた。

広島城の天守閣から眺める広島市内は、高層ビルが建ち並ぶ都会だった。71年前、ここに原子爆弾が落ちたとImg_1102は想像もつかない。しかし、それは表層だけのことで、少し内を眺めてみるのなら、悲惨な爪痕は、この街のあちらこちらに点在していることもよくわかった。

Img_1077ちょうど金曜日に山田洋次監督の『母と暮らせば』をみてきたばかり。広島ではなく長崎が舞台だが、原爆投下の経緯や、閃光の描写は、鳥肌ものだ。

ただ、黒木和雄監督の広島が舞台の『父と暮らせば』に軍配を上げるかなー。黒木監督には、長崎が舞台に、原爆投下までの24時間の家族の日常が描かれた『TOMORROW 明日』もいい映画だし、戦争レクイエム三部作は名作揃い。

 

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広島での三周忌法要

再建の華光会館の建設に、ご尽力くださったMさんの3回忌にお招きいただく。
そのお子さん方やお孫さん、そして従姉妹の皆さんも、華光同人なので、ご縁は深いが、それぞれの連れ合いの方とは、面識はあるが、仏法のご縁はなかった。
単なる法事ではなく、法供養として、また仏縁を結んでもらいたいとの願いから起こってきたので、喜んで参上させていただく。

皆さんと一緒に、声家に出してもらいたいので、お正信偈を勤めさせていただく。その後、浄土真宗の法事の意義についてお話させていただいた。

午後からは、華光同人の方も加わった法座となる。

「生まれてから今まで、お母さんやお父さんにどてことをしてもらいましたか? 思いつくだけ、できるだけたくさん書きましょう」

これが、今日の法座の教案だ。

以前、「親の恩はありすぎてかけません。ただただ感謝するだけです」と書かれた方があった。確かにその通りだが、それだけでは勿体ない。最初は、表面的なことしか思いだせないだろうが、小さなことでもいいので具体的な出来事を思い出していけば、ほんとうに芋づる式に、親のご恩徳が思い出させるのでかあるから不思議である。今回は、皆さん、思いの外、熱心に取り組んでくださった。

故人Mさんの思い出を、一言ずつお聞きしたあとに、親のご恩徳について尋ねる。
これが、まるで大河ドラマのような波乱万丈の話が次々と続き、感動させられた。

たとえば、満州での終戦を迎え、父親は抑留され、母親が5人子供連れて逃げるが、そのうち3名までは途中で死に、自分も弟も栄養失調で、餓死寸前で、足も立たなくなったという。そこからの母親のなりふり構わぬ奮闘で、日本行きの船に乗れたという。しかし、そこには子供二人も連れている親は稀だったというのである。みな子供を亡くしたり、生き別れたり、中国人に預けたりで、やっとひとりだけを背負ってきたりと、まさに山崎豊子の「大地の子」の風景だ。

または、さまざまなご因縁から養父母に預けられ、それが呉の空襲の火の海の中、自分の手を引いて、足が火の粉に触れない様に、飛ぶように手を引かれたという方の体験談も、すさまじかった。

しかも、それが単なるこの世の中の感激的な話に終わらず、その命があった不思議が、いま、ここでお念仏を喜ぶ不思議への大転換していくのであるから、こんな稀な、幸せ人達はおられないのである。

それらの声に刺激を受けたのか、これまで仏縁のなかった親族の皆様からも、とても尊いお話を聞くことができた。なかには、せつせつと両親のご恩を語ってくださり、「ぼくは死ぬのか怖くない。親二人が待っていてくれると思ったならば、こんな有り難いことはありません」と涙ぐみながの真摯な姿に、こちもが感動させられたりもした。

単なる勤行や飲み食いで終わらず、みんなが、心を開きあってみのりある法座を勤めることができた。これもきっと仏なって還相廻向くださる故人の仏徳のたまものであろう。

ありがとうございました。南無阿弥陀仏

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舎利弗の沈黙、阿難の驚き

1月の輪読法座

土曜日の開催だったが、参加者は少ない。

巻頭言『舎利弗の沈黙、阿難の驚き』を読む。

『大経』『観経』『阿弥陀経』(『小経』)の浄土三部経には、二つの釈尊の出世本懐経がある。まず一つは、親鸞様が、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」(教巻)と明示された『大経』である。そしてもう一つが、釈尊の一代結経(結びの経)といわれる『小経』だ。

 その『小経』は、聴衆の問いを待たず、一方的に釈尊が、舎利弗尊者に語りかけた無問自説経である。それで親鸞様は、「釈尊出世の本懐をあらはさんとおばしめすゆゑに、無問自説と申すなり」(一多証文)と述べられている。釈尊が、「舎利弗よ、舎利弗よ」と一方的に呼びかけながら、語り続けられた阿弥陀様と、その浄土の有りさまは、智慧第一と称された舎利弗尊者ですら、ただただ圧倒され、口を挟む余地などなかったのである。

 一方、『大経』が出世本懐であるためには、聴衆たる阿難尊者の質問がなければ成立しなかった。阿難は、釈尊のお側に仕え続け、そのご説法を常に聞きながら、この時には、はまだ悟りの眼が開いていなかったといわれる。いわば凡夫である。 ところが、その凡夫である阿難の目にも、五徳瑞現し、大寂定の境地に入られた釈尊の威光は、只事ではなかった。つまり、その時、初めて、阿難の目には、釈尊が阿弥陀如来に見えたのである。だから、驚き、思わず問わずにおれなかったのである。
 それに対して、釈尊は、それが諸天に教えられた問いか、自ら発した問いかを確認され、阿難自らが発したものだと知られると、「善いかな阿難、問えるところはなはだ快し」と満足されて、阿弥陀仏の本願を説き、群萌を救済することが、我が出世の本懐であり、いまこそ、それを説き聞かす機が熟したのだと、喜ばれたのである。

 これは私見ではあるが、釈尊が、阿弥陀様とお心を通わせ、弥陀三昧に入られのは、この会座の時だけではないのではないか。なぜなら、釈尊を始め、諸仏方が世に出現されるのは、すべての迷える衆生を、我が名一つで救ってみせるという阿弥陀如来の本願を説かんがためである。そのために釈尊は、阿弥陀様としめして、この娑婆に現れておいでになった。ならば、常に、釈尊と阿弥陀様は、お心を通わせておられたはずだ。

 しかし、凡夫である阿難には、常日頃から接していた釈尊が、この時、初めて阿弥陀様と仰がれたのである。がまだその真意までは理解できなかった。そこで釈尊の懇切丁寧なご説法(『大経』)を通して、その真意をお聞かせに預かったのである。いわば、凡夫の側には、まだ何の準備もできていないにも関わらず、初めて説主はただ人ではなく、阿弥陀如来そのものであり、その口を借りた阿弥陀仏の直説法が、凡夫の私のためのものであったと、ここに聞こえてきたのである。

 だからこそ、弥陀の本願が説かれた『大経』が、釈尊の出世の大事であり、真実の教えなのだと、親鸞様は仰りたかったのではないだろうか。
 二千五百年前、霊鷲山の会座にあった阿難とは、他の誰でもない。いま、ここで善知識の口を通して、弥陀の本願の心をお聞きしている、私自身のことにほかならない。  
こんな内容に解説を加えながら、もう少し話し合いたかった。が、話し合いでは、思わぬ方向へと進んでいた。座談会でいい格好をして、自分の問題に触れられない、特に、機のありさまについては、ありのままを包み隠さずに話してもらわなければ伝わってこないという意見をめぐって、いろいろと熱く語り合われた。要は、安心して自分を開けるかという問題だが、それは、単に伝える側の問題だけでなく、聞き手の態度にも大きく左右されることであるのになあーと思いながら聞かせてもらった。ほかにもいろいろと感じることはあったけれど、巻頭言の内容には深まらなかったのは、ちょっと残念。

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190本+20本

昨年は、1月と、そして8月から12月は、かなり多忙な1年だった。
それでも、隙間時間を見つけては、映画館に通った。これまでの人生でいちばんよく映画を観た年になった。

1月4日に、ポーランド映画『幸せのありか』を皮切りに、12月30日のロシア映画『裁かれるは善人のみ』(『ヴェラの祈り』『エレナの惑い』と3作を連続で上映していた、ロシアの鬼才アンドレイ・ズビャギンツェフの力作)まで、実に映画館で190本の新作を観、自宅での20本を加えると、合計、210本も観たことになる。

今年はペースダウンするだらうが、ある程度のペースは続くだろう。今年、1本目に選んだのは、ジョージア映画(合作ですが。旧ソ連のグルジアの新しい国名)の『独裁者と小さな孫』。イランの名監督(亡命中)巨匠モフセン・マフマルバフ監督の傑作。政権を追われた老いた独裁者と幼い孫の逃避行の果てに起こる人間の業を描いていた。

今年は、もう少し映画のことにも触れたいな~。せめて週1本のペースが目標でけども、、。

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勉強になりました

新年4日、町内からお悔やみの知らせがある。
今年度、随分、町内会の高齢者が亡くなられた。最高齢の105歳である。明治生まれの方の葬儀は、久々だと住職も話していた。

ご近所の本派のご住職がお導師である。声もよく、堂々としておられる。シーンと静まったホールで、多少の躊躇したが、一緒にお勤めさせていただいた。ところが、三奉請が始まると、一般の焼香が始まり、三奉請が終わるまでに一般焼香も終了。それから導師の焼香があり、その後に弔電披露があるという、変則パターン。

そして勤行のあと、10分間以上もご法話もあった。葬儀に法話があるのは珍しいが、内容も、今日の本派ならば、満点に近い内容だと思った。

一般の宗派では、中国で作られたお経によると、死に装束をつけて、六文銭(ここで大河の真田丸の話題も)で三途の川をわたり、苦しい死出の旅の末に、七七の審判をうけ、その生前の行いによって行き先が決まり、百ケ日で細々と修正される。そのために、その間に遺族は、娑婆にあって法事を営んで、死者に供養を施していくという。もちろん、諸説があるうちの一説。しかし、浄土真宗では、阿弥陀様のお力によって、すばらしい世界に生まれさせていただく。亡くなった故人も、すでに浄土往生されて、私達を導いてくださっています。

では、なぜ、真宗で葬儀や法事をする必要があるのか。亡くなった故人ではなく、生きている私が、いまの生きかたを見つめ、法事を勤めさせていただく。どこかで、亡くなった方と自分との間に線を引いてはいないか。でも、これが私の姿。無常は、今夜かもしれないし、明日かもしれない。いつ何どき、私にも死がやってくるかもわからない。そのことを、故人は、身をもって教えてくださった。だからこそ、自分自身がほんとうにいただいた命を精一杯生きているのか。そのことをしっかりと聞かせていただくために、葬儀や法事がある。

また、(浄土往生されているのだから)清め塩というものも、おかしい。私は、あれは気持ちが悪い。亡くなったおばあちゃんは、不浄ではない。死は悲しいことですが、けっして歎くことではありませんと。

まあ、ぼくの耳に残っている大要である。ご縁を作るという点でも尊いご法話だった。

でも、残念ながら、一番肝要のところがぼやけてくるのは、仕方ないことなのかなー。

「浄土真宗では、阿弥陀様のお力によって、すばらしい世界に生まれさせていただく」に間違いはない。がしかし、真宗の家に生まれた門徒ならば、聴聞もせず、お念仏も申さず、信心獲得もなくても、「阿弥陀様のお力によって浄土に生まれおられます」と言い切っていいのだろうか。「浄土真宗では」そうかもしれないが、「わたくし」のところではどうかを問わないと、生きた聞法には繋がらないなどと、終始、上から目線でした。

でも、新春からこんな形でご聴聞させていただくとは思ってもみなかった。

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これが、私の人生。

Img_0975 10年日記が昨年末で、また一冊終わった。

 本屋に買いにいくと、5年日記はあったが、10年日記は品切れとなっていた。一回り小さい携帯用の10年日記は売っていて値段も安かったが、これまで使ってきた豪華版がいいので、31日に予約をしていたものが届いた。

 「これが、私の人生。」~毎日の記録が自分史になる~

とオビにあった。

  そうだな~。前の1冊を読み返してみても、1996年~2015年の10年間は、実にいろいろなことがあった。その前の10年間(1986年~1995年)も、いろいろなことがあったわけだが、激動、激震という意味では、近々の5年間の歩みが激しい。「そんなことがあっていいのか」と自分でも思うこともあったし、結局、いまだに、そのプロセス(過程)を生きているような気がしてならない。一旦、動き出した流れを留まることは容易ではない。むしろ、その流れ(自分の好ましくても、好ましくなくても)を促進する方向で進むことが自然であることが、この5年間の学びだったような気がする。結局、ゴールなどはどこにもなく、常に歩みを続けていくしかないのである。

 それにしても、これからの10年もまだまだ元気だと微塵も疑わずに、購入した。さて、愚かにも、ずっと変わらずにあると信じて疑わないこれからの10年。実は、何が起こるのかもわからず、さらに好ましくないことが起こるかもしれないし、もしくは10年を待たずに、突然、人生そのものが終わるかれしないのにな。.

 だからこそ、まずは2016年1月1日から……。

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暖冬だけれど

 この三カ日は、天候に恵まれ、気温も4月上旬並にまで上がった。日本列島はどこも温暖な、穏やかなお正月になった。結構なことだと思っていてたら、正月に雪不足で、スキー場がImg_4214ピンチだというニュースが流れていた。大雪や寒すぎるのも困りものだが、寒い時に寒くないと困るということである。

 修正会の後、北海道に里帰りした連れ合いから、メールが届いた。

「こちらも雪は少ないです」。

 でも、この写真だ。少ないといっても、やっぱり違うなー。
 その夜、窓を叩くのは、キタキツネである。
 細長い日本列島、所変わればである。
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わが家のお雑煮

Img_0926正月、おせち料理をいただく。
元旦のお雑煮は、京都風で、甘めの白味噌仕立てで、丸餅、大根やニンジンが入っている。ニンジンもオレンジ色の西洋ニンジンではImg_0967だめで、金時ニンジンの赤いものでないとダメだというのである。

二日目は、おすましになって、穴子とカキが入っている。これも二日Img_0942目の朝のわが家の恒例である。

元旦の夜は、先斗町(ぽんとちょう)に繰り出した。小さな路地を入っていく気楽なお店だが、個室になっていた。

元旦は、昨年は大雪で、みんなが揃わず、一昨年は、母が、体調を崩Img_0951してと、なかなかみんなが揃うことImg_0945はなかった。そして、今年は、父も亡くなり、子供たちもいなくて寂しい正月となったが、名古屋から持ち込まれたシャンパンと赤ワインでお祝いした。

Img_0953御馳走さまでした。

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穏やかな修正会

Img_0908昨年は、大雪の元旦で印象深かったが、今年は、対照的に穏やかな元旦で、ずいぶん温かい。

父が亡くなって初めてのお正月。子供たちもブラジルで、昨晩はスカイプで紅白を一緒に観たが、人数減って少し寂しい。

家族でお節をすませ、午後から修正会である。
参加者はそう多くはなかったが、地元の京都や大阪、奈良、滋賀の近畿圏だけでなく、九州、広島、福井、名古屋と、そして東京からの参詣者がImg_0928_2あったし、ご縁の新しい方もそれなりにお参りくださった。

「正信偈」(行譜)のお勤め。和讃はいつもの六首引ではなく、「現世利益和讃」15首を華光節で、皆さんと声を合わせて唱和した。

法話は、新年なので、軽くゲームから入った。頭の体操の定番である枠を出るゲームであるが、なかなかこれが難しくて、数名の方しか正解がでなかった。でも、これはあくまで導入。
「蓮如上人御一代記聞書」第1条をいただく。

「勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。
『道徳は、いくつになるぞ、道徳、念仏申さるべし』

実に、蓮如上人79歳の元旦のことで、道徳さんも70代のころのことである。

  「かりもんは、いくつになるぞ。
  かりもんよ、念仏申さるべし」

と、おひとり、おひとりのお名前でお呼びして、「念仏申すべし」の言葉を贈った。
ほんとうに、うかうかと年月ばかりを過ごしているけれど、念仏申す生活を送っているのだろうか。
しかも、蓮如様は、このあと、道徳さんに、数を頼む、わが力を頼み、いわば善い子になって仏様に功徳を振り向けて助かったいこうという自力の念仏を捨てて、阿弥陀様の本願力をたのむ一念でお救いに遇う他力の念仏に帰せよとお勧めになっている。その上の称名は、臨終の一念まで御恩報謝で、ただ「有り難いな、尊いな」と慶んで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と申すだけなのである。

「勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。
『道徳はいくつになるぞ、道徳念仏申さるべし』

「自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。
 他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさ、ありがたさと思ふこころをよろこびて、『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と申すばかりなり。
 されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。」

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迎春

Img_0909_2謹 賀 新 年

 旧年中は、たいへんお世話になりました。

 昨年も、実にいろいろなことがありましたが、新年を迎え、新たな気持ちでスタートを切りたいと思っています。

 何かと遅れがちですが、本年も、「かりもん」ブログも、よろしくお願いします。

よろこびは、初よろこび、なもあみだぶつ 
                           
(才市同行)

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