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京都支部法座~地獄は一定~

 年末恒例のM家での家庭法座。
今年も、京都や大阪、奈良だけでなく、東京や三重など遠近各地からお参りがあった。
ご法話は、歎異抄第2章をご讃題に、藤場先生の『教行信証を読み解く』から、あるビデオ販売の青年たちとにやりとりを巡って、「浄土に行くことが決まるから、地獄にはいかない、だから安心だ」という論理では恐怖心を揺さぶられると不安に戻る、そんなところにほんとうの安心はない云々という一節を参照しながら、先の華光大会での分級座談会で、
「後生が分かりません! 地獄が怖いです。いちばん大切なことを誤魔化して聞いていても意味はありません。それなら華光を止めます。わからない事は、「わからない」と誤魔化さず、『どうか教えてください』と頭を垂れて聞けといわれました。だから全力で聞きます」と、自らを開いて一歩でてくださったある同人の聞法の姿を合わせて、歎異抄第2章を読ませていただいた。

 先の東海や今日の法座でもおられたが、華光とのご縁が浅い方の中に、尊いご縁にあって、わが身の上で不思議な体験があったり、何かに気付いて楽になったり、お念仏が溢れたりしたような機(私)の上での慶びや気づきや変化(確かに、以前とは異なっているのだろう)を握って、「ご信心をいただきました」というような方がおられるが、それでいて、この第2章のお心がわからないというのは、いかがのものなのだろうか。
 確かに、真宗のおみのりは、他力の易い(安い)教えだ。しかし、けっして軽い教えではない。いまの変わり目ばかりが気にかかって、そこに一喜一憂する姿は、後生どころではないようだ。わが心は、コロコロ変わっていく。尊いご縁で慶びがおこるかもしれない。しかし、それもまた変化していくとなればどうか。聞法は、わが身の虚仮不実と同時に、変わらない真実(法)のお心をお聞かせに預かることがないと、機の変化にばかり目を奪われていては、今度の後生はおぼつかないのだ。
 
 結局、私は何を慶ばせていただいているのかである。
 おひとり、おひとり、わが胸に問うて聞かせていただきたい。

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