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2015年12月の11件の記事

★ご注意★「寒中子供大会」の日程変更

25日に、新年号発送しましたが、来年の「寒中子供大会」の日程を間違ってお知らせしています。新年号の裏広告、年間行事表、さらには、「案内チラシ」を訂正してください。
お詫びして、訂正いたします。

正しい日程=2月27日(土)~28日(日)
締切り   =2月12日(金)

なお、東京支部法座が、
2月20日(土)~21日(日)の林野会館です。

HPでもご確認くださり、関係のある方にお知らせくださると幸いです。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2016/detail/02/kodomo2016-2.htm

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アンコールワットへの道

 Img_084912月8日。成道会の日。1月のカンボジア、アンコールワット遺跡群の旅行を前に、アンコールワットへの道と題した興味深い展覧会が、龍谷大学ミュージアムであった。大学から招待券をいただいたので、連れ合いと出かけた。

快晴。西本願寺も公孫樹の黄色と、青空と、白い雲と、国宝に指定されImg_0860た御影堂の黒瓦のコントスラトがくっきりと美しかったなー。

 展覧会は、充実の内容だ。細かな細工の違いでも、時代背景が異なるところも、詳しく紹介されていた。
Img_0847_2 ただし、これはあらかじめ予感していることだったが、正直にいって、アンコール遺跡の神々も、仏様方も、ぼくの感性では、かなり奇異に見えた。まだ、馴染みのないヒンドゥーのImg_0864神々は仕方ないだろう。インドのエローラ石窟寺院にしても、その半分はヒンドゥー遺跡で、ちょっと違和感があった。しかし、隣のアImg_0865_2ジャンター石窟寺院の仏像や仏画は、文句なく素晴らしかった。インドネシアでも同様で、荘厳なロロジャングランもヒンドゥーの神々だったでの、あまり感心しなかったが、ボロブドールや周辺のプランバナン遺跡群の仏教寺院のもの、深く感銘を受けた。 

Img_0876 ところがである。カンボジアのものはそうはいかない。ヒンドゥーの神々ではない、カンボジア遺跡の仏像にしても、違和感ありありで、なかには気味の悪い観音菩薩像に、嫌悪感さえ覚える始末である。いや、これはちょっと参った。
 現地の足を運ぶと、評価が変わるかもしれないが、日本人のぼくの感性には、ちょっと会わないというのが正直な感想だった。

 それでも、博物館の売店で、アンコールワットのガイド本を何冊購入した。パラパラ読んだ限りでも、興味津々ではあって、旅行自体は楽しみにしているのであった。以下で、神々や仏さま方をご覧いただけます。

http://museum.ryukoku.ac.jp/exhibition/sp.html

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大掃除

Img_0900今年も恒例の大掃除である。

今年は、二年ぶりにお掃除基金で、窓ガラスの掃除のみが行われた。ありがとうございます。
でも、他のところは、相変わらず仏青や近郊の有志にお願いしている。

Img_0902日頃、手が届かないところが中心で、たとえば、外回りとか、屋上の溝や看板の掃除である。
もちろん、迎春に向けての大掃除もあった。看板もきれいになったでしょう。

京都や滋賀県の仏青の皆さんも、ずんぶん少なくなったが、少数精鋭で頑張ってくださった。
ありがとう

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今年最後の輪読法座

今年最後の輪読法座。

昨日、新年号華光誌を発送したが、今月の輪読は、10月号の続きだ。
最後ということもあってか、名古屋や日高など、初めて参加くださる方もあって、日頃の輪読に比べると参加者が多かった。

悟朗先生の正信偈講座で「法蔵菩薩因位時~重誓名聲聞十方」の八句の解説の後半である。
本文の解説は終わっていて、阿弥陀様の願いは、諸仏に超えて「善悪、智愚を超えたお救い」という補足の部分である。

ご本願は、善悪を超えた、悪人めがけたお救いだは、同時に、智愚(アホも、賢い)を超えた、愚者めがけたお救いだということになる。
でも、ここもまた難しいことろで、自分を悪人だと思っていない以上に、自分がアホだとは思っていないのである。
すべて、阿弥陀様のの慈悲や智慧をものさしにした話なのだ。阿弥陀様の前では、人間の相対的な善や知恵などは、比べることなどできないのである。でも、なかなかそこが腑に落ちず、人間的な、この世の中での善悪や智愚で聞法するから、なかなか光明無量(智慧が無量)、寿命無量(慈悲が無量)の南無阿弥陀仏のおこころが、届いてこないのである。そのおこころを、時に教義的に、最後は、身近な話題でお示しくださった。

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新年号華光誌を発送

Img_0894 新年号の華光誌を発送する。

 新年号に加えて、恒例の年賀広告、そして年間行事表に、2月「寒中子供大会」、3月「講習会」案内チラシ。さらに今回は、華光大会に参詣されたり、ご喜捨くださった方にはすでにお配りしたが、「増井Img_0888悟朗師追悼号」が同封されている。

 いつもの3倍程度の厚さになった。

   発送作業も、3倍ほどかかった。

 事務所のTさん、Rさんと、連れ合いに加えて、生駒からIさんにお手伝いをお願いした。

 すでにお手許に届いたかもしれませんが、たっぷり読み応えがありますので、お正月のお楽しみに。

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京都支部法座~地獄は一定~

 年末恒例のM家での家庭法座。
今年も、京都や大阪、奈良だけでなく、東京や三重など遠近各地からお参りがあった。
ご法話は、歎異抄第2章をご讃題に、藤場先生の『教行信証を読み解く』から、あるビデオ販売の青年たちとにやりとりを巡って、「浄土に行くことが決まるから、地獄にはいかない、だから安心だ」という論理では恐怖心を揺さぶられると不安に戻る、そんなところにほんとうの安心はない云々という一節を参照しながら、先の華光大会での分級座談会で、
「後生が分かりません! 地獄が怖いです。いちばん大切なことを誤魔化して聞いていても意味はありません。それなら華光を止めます。わからない事は、「わからない」と誤魔化さず、『どうか教えてください』と頭を垂れて聞けといわれました。だから全力で聞きます」と、自らを開いて一歩でてくださったある同人の聞法の姿を合わせて、歎異抄第2章を読ませていただいた。

 先の東海や今日の法座でもおられたが、華光とのご縁が浅い方の中に、尊いご縁にあって、わが身の上で不思議な体験があったり、何かに気付いて楽になったり、お念仏が溢れたりしたような機(私)の上での慶びや気づきや変化(確かに、以前とは異なっているのだろう)を握って、「ご信心をいただきました」というような方がおられるが、それでいて、この第2章のお心がわからないというのは、いかがのものなのだろうか。
 確かに、真宗のおみのりは、他力の易い(安い)教えだ。しかし、けっして軽い教えではない。いまの変わり目ばかりが気にかかって、そこに一喜一憂する姿は、後生どころではないようだ。わが心は、コロコロ変わっていく。尊いご縁で慶びがおこるかもしれない。しかし、それもまた変化していくとなればどうか。聞法は、わが身の虚仮不実と同時に、変わらない真実(法)のお心をお聞かせに預かることがないと、機の変化にばかり目を奪われていては、今度の後生はおぼつかないのだ。
 
 結局、私は何を慶ばせていただいているのかである。
 おひとり、おひとり、わが胸に問うて聞かせていただきたい。

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12月の聖典講座~往覲偈(2)~

  往覲偈の段落分けは、表になっているので、講座のプリントを参照してもらうとして、簡単に往覲偈の各行の大意を述べよう。
 
(1)菩薩の往覲(菩薩の往覲に寄せて、広く浄土往生を勧める)段

(一)菩薩の往覲と供養(1~7行) 
無数の十方諸仏の国の菩薩たちが、阿弥陀如来の浄土に参詣し、如来を拝し(往いて覲るので往覲)(1・2)、華・香・衣を捧げて如来を供養し(3・4)、その徳を歌(口)で称え(5・6)、身で称え(6後)、自らの国土もこのような浄土にしたいと発願をする(7)。

(二)聞法と授記(8~15行)
そこで、阿弥陀如来が瑞相を顕すと(8・9)、聴衆は歓喜し(9後)、観世音菩薩の問いによって(10)、阿弥陀如来の説法が始まり、聞法する聴衆に、かならず仏の悟りをひらかせ、願いをかなえさせようと約束をされる(授記)(11~15)。

(2)諸仏の讃嘆(諸仏の讃嘆を通じて、聞法・聞名の重要さが説かれる)段

(一)得益と讃信(16~20行)
そして、十方の諸仏もそれぞれの自国の菩薩たちに、阿弥陀如来の浄土に往って、「法を聞いて悟りを開け」と勧めから始まり(16・17)、阿弥陀如来の本願力によって、名を聞くことにより、不退のご利益が得られることが説かる(18・19~20)。

(二)難信と勧信(21~30行)=〈梵本や『如来会』では、この部分は、経末の流通分に置かれている。前半と結合し、釈尊も諸仏の中の一人と見て、繰り上げられ諸仏のお勧めを説く箇所に組みこまれたと思われる。〉(参照・藤田宏達氏説)

もし善根を積まねば、この経を聞くことができず、宿世に諸仏にまみえる者は、進んでこの教えを聞こうと願うこと(21・22)、驕慢や邪見や懈怠の者は、本願が信じることが難しいと諭される(23)。如来のお心や智慧は、深く広くてはかり難いことを述べ(24~27)、人身を得、仏に遇い、その教えを信じることは極めて得難く(28)、その教えを仰いで大いに慶ぶ者は、わが(=釈尊)善き親友 であり(29)、ひるまずに聞法するなら必ず仏道が完成すると結ばれる(30)。

 特に18行目の「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」は、重要だ。

 古来、「破地獄の文」とも呼ばれる(法然聖人『和語燈』)。盆参でも勤行されている。     
 親鸞聖人は重視され、『行巻』大行釋に引用。『尊号真像銘文』*で釋されて、如来の本願力による、現生(此土)での聞法不退と頂かれた。
 第十七願、第十八願、第十一願の三願意の場合。
 第十八願意の場合。 

*「又言 「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」(大経・下)と 「其仏本願力」といふは、弥陀の本願力と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽浄刹に生れんとおもへとなり。「皆悉到彼国」といふは、御ちかひのみなを信じて生れんとおもふ人は、みなもれずかの浄土に到ると申す御ことなり。「自致不退転」といふは、「自」はおのづからといふ、おのづからといふは衆生のはからひにあらず、しからしめて不退の位にいたらしむとなり、自然といふことばなり。「致」といふはいたるといふ、むねとすといふ、如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退の位にいたらしむるをむねとすべしとおもへとなり。「不退」といふは仏にかならず成るべき身と定まる位なり。これすなはち正定聚の位にいたるをむねとすべしと説きたまへる御のりなり。」(尊号真像銘文)

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12月の聖典講座~往覲偈(1)~

  『大経』も、下巻の「衆生往生の因果」に入り、まず「衆生往生の因」で、衆生が浄土往生する原因に、他力の念仏往生(11・17・18願成就文)と、自力での方便化土への往生である諸行(三輩)往生が説かれた。今日は、『往覲偈』によって、諸仏方による阿弥陀如来の讃嘆と、衆生への浄土往生のお勧めが説かれている段である。
 
 『無量寿経』には、上巻に「讃仏偈」と「重誓偈」、下巻には「往覲偈」東方偈)の三つの偈文がある(ちなみに『観無量寿経』『阿弥陀経』には、偈文はない)。「讃仏偈」と「重誓偈」は、法蔵菩薩(阿弥陀如来)のお言葉で、この「往覲偈」は、釈尊の説法となっている。

 偈とは、梵語の(gatha) =「伽陀」のことで、頌とも訳され、詩句をもって、仏をほめ、又は法義を述べること。必ず、四句をもって一行(一偈)とするが、「往覲偈」は、五言で、百二十句三十行(偈)の詩句となる。

 「往覲」(おうごん)とは、十方諸仏国から菩薩が、弥陀の浄土に参り、阿弥陀如来を拝むことから始まる。往(ゆ)いて覲(み)るので「往覲」といわれる。
 なお、親鸞聖人は、往覲」の左訓で、「往生し仏をみたてまつる」として、「往生」と頂かれた。このところは、悟朗先生の『三帖和讃講讃』上(59頁)の要点を参照していただきたいが、当面は、修行を積んだ菩薩方が、神通力をもって他の仏国へ往詣するのが普通であるのに、聖人は、如来の本願力によって往生し、阿弥陀仏を拝見するとされた。すなわち、他力によって参る往生浄土のことを示しているのである。

 ほとんどの皆さんには、まったく馴染みない偈文だが、実は、遺体を納棺した直後の勤行として用いられるので、通夜の前に勤められることもあるのだ。また断片的な言葉や、親鸞聖人の和讃を通じては、よく聞き慣れた文もある。

 偈文に先立ち「長行」(じょうごう=字数を定めない散文のこと)があり、ここでは、
初めに、(1)諸仏の阿弥陀如来の讃称を説かれ、
次いで、(2)諸仏国の菩薩の往詣(おうげい)が説かれる。

 それを受けて、「往覲偈」では、その趣旨を重ねられ、
(1)菩薩の往覲と、
(2)諸仏の讃嘆がうたわれているのである。

 ところで、十二礼に、往覲の御こころをうまくうたっておられる。

十方所来諸仏子  顕現神通至安楽
瞻仰尊顔常恭敬  故我頂礼弥陀尊

十方より来きたれるところのもろもろの仏子、神通を顕現して安楽に至り、
尊顔を瞻仰してつねに恭敬す。 ゆゑにわれ、 弥陀尊を頂礼したてまつる。

それが、子供の聖典では、こうなっているのだ。

ここに集まる御子たちは 仏の力で参りきて、
慶び、敬いたてつまる  お阿弥陀さまを拝みます

と、神通力ではなく、本願力とされていて、なかなか味わい深い意訳になっている。

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お寺の紅葉

ところで、Img_0769_2 12月2日、3日には、兵庫県宍粟市山崎町の願寿寺の永代経法座にお招きいただいた。

 境内の紅葉は、少し散りかけ散るが、まだ見ろのようだ。

Img_0779 年の冬は、暖冬傾向で、紅葉も長持ちしてるようだ。

Img_0771_2 ところで、ここの経蔵も、中央には傳大士(ふだいし)と脇侍(わきじ)の3体が、一切経を護っておられた。

 Img_0803

Img_0812_2_2

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宍粟組連続研修会

Img_0793今年も、兵庫県宍粟組の連続研修会(連研)に講師としてお招きいただく。

宍粟組は24ケ寺ほどあるそうだが、団結力があって、ほとんどのお寺が持ち回りで会場(会所)を提供されている。連研は、門徒さんの中心となって法座活動を牽引する門徒推進委員を養成しようというもので、法座を単なる説教の聞き放しではなく、話し合い法座として位置づけられているのである。

しかし現実は、なかなかうまくはいっていない。寺院のなかで、自由な信仰座談会が活発になっているところは、ほとんど皆無といっていい。志があって連研を初めても、結局、作法だっただ、教義や勉強会になったり、せいぜいテーマに添った議論の場(これもなかなかない)であったり、ほんとうの意味で、自由な信仰の悩み、相談をする場になることはなっていないようだ。

その中でも、この組(そ)は、かなり健闘されている。毎回、時間の半分を座談会に当てられ、ぼくが「楽しい話し合い法座」というテーマで伝えた約束を中心に、話し合いの時間を大切にしようと試みられている。

話し合い法座というけれど、話し合うには、よく聞き合うことが先になる。
だからこそ、難しい。
しかし、だからこそ、面白い。
最近、つくづくその凄さを感じている。聞くことは、ほんとうの至高体験をもたらすものであるだが、ぼくはどこまでいっても聞くことが苦手だし、嫌いなんだともつくづく思う。ぼくの連れ合いには、「聞いたふりがうまい」というすごい特技あるが、ぼくは、聞いたふりすらうまくないのである。だからこそ、勉強をしたいとも思っている。その機会をいただいたご縁だ。

参加の皆さんは、逃げ腰だったけれど、人一組の「如是我聞」ゲームをさせていただいた。この評価は、いろいろあった。ご住職中には、こんな法座を持ちたいと思っておらる方もおられるし、反対に「真宗は、仏法(教え)を聞くことが大切なのだから、人間の愚痴を聞いてどうなるのか」と、反論されるご住職もおられる。参加者の皆さんだって、大半は、参加に消極的だけれども、住職に頼まれて、しぶしぶ参加されている方も、かなりおられることもわかる。
まず、そんな声でも、安心して出せる場であることが分かってもらえば、今回は収穫があったのではないだろうかなー。

それにしも、今夜はとても寒かった。ストーブがガンガンと焚かれていたけど、本堂は、すきま風が入ってきて、かなり冷え込んだ。

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再開です、たぶん

久しぶりの書き込みである。

とにかくいろいろと仕事に追われていた。

華光誌に、年賀広告、そして年間行事に、総会後の所轄所への提出などなど、年内の完成のためには、期日や締め切りが迫る仕事が続いたので、それを優先された。
その合間には、法座も続いている。一昨日は、カウンセリグの月例会、昨日は伝道研究会、明日は宍粟組連続研修会に出講し、明後日は聖典講座で、その準備もあるといった具合だ。
特に、今週は、業者の窓掃除に、換気扇の取替え工事、さっきもネット環境の変更工事と、雑用も続いた。

これから例年の年末の作業に入る。今年は、父に関する手続きもあるので、できれば年内にすませたい。結局、ひとつひとつに手を付けて、仕上げていくしかない。

ブログもボチボチ再開したい。できれば、今月の歩みを振り返りながら味わってもみたいが、、。

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