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厳しい無常の道理

 今年の大会中、訃報が相次いだ。

 初日を前に、ある同人のお母様の訃報が入る。電話口から聞こえるすすり泣く声は、とぎれどぎに震えていた。これまでのご因縁をお聞きしているので、彼にとって、最愛の肉親の死の意味の大きさが伝わり、胸に突き刺さる。

 同じく、大会中には、参加者のある同人のご子息が、まだ20代で突然の訃報が届き、途中で、帰宅された方があった。今度は、親が子を亡くして、悲しまねばならない。

 時を同じくして、古参の同人で、そのおじいさんからお母さんへ、そしてご本人やご家族へ。それが、お子さんやお孫さんへと華光とのご縁が続く中で、ぼくと同級生の方の訃報も届く。ご家族の中では、いちばんご因縁は浅い方だったが、それでも子供大会や仏青にも参加くださっていた。なによりも、大病以降は、進んで仏教に関心を寄せて、仏書を読みあさっておられたというのである。

 少し前には、ご縁があって、法名を付けさせていただいたが、仏教に関心をもらっておられたその方に相応しいものと考えさせていただいた。

 葬儀は、大会の翌日になったので、生駒の葬儀会館まで参列させていただいた。

 ご家族の悲しみが痛いほど伝わってくる。特に、子供亡くされたご両親の悲しみは計り知れない。厳しい無常の現実に泣き崩れたお父様のお姿が、痛々しかった。静かに背中に手をかけさせていただいた。
まさしく仏説まことを聞かせていただくばかりである。

「人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生まれていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。」(p90・「浄土三部経 現代語版」より)

「生まれ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これか無常の道理である。すべてははかなく過ぎさるのであって、いつまでもそのままでいることはできない。」(p102・浄土三部経 現代語版」より)

「あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残られることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心が痛み思いをつのらせる。そうして長い年月を経ても相手への思いがやまず、仏の教えをとききかせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることができない。心は暗く閉じふさがり、愚かにも迷っているばかりで、落ち着いて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道を励み、世俗のことを断ち切ることができない。こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命がつきてしまうと、もうはや悟りを得ることができず、どうするすべもはない。
まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。にもかかわらず………」(p103・浄土三部経 現代語版」より)

 ああ、「大経』の三毒段のご説教の通り。 だからこそ、いま、この元気をうちに、一刻も早く、真実のお念仏様に会わせていただかねばならない。南無阿弥陀仏

 

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