11月の聖典講座~十九願成就文(2)
菩提心についても触れました。
菩提=ボーディー・心=チッタ。仏の悟りに至り、仏智を得ようという心。この心を起こすことを、「発菩提心」という、すべての仏道の出発点です。菩薩道も、「上求菩提、下化衆生」といいますね。
ところが、法然聖人は、専修念仏の立場から、この菩提心を否定するかのような教えを打ち出したため、聖道門からの激しい弾圧を受けるきっかけのひとつになります。それが明恵上人の『摧邪輪』の批判にもつながり、また、同時に、親鸞聖人が『教行信証』を執筆される動機の一つは、明恵上人の批判への反駁のためだとも考えられているのです。
丁寧に窺うと、法然聖人が否定されているのは、行としての菩提心です。でも、それは確かに伝わりづらいものです。
そ れに対して、親鸞聖人は、菩提心に、自力と他力を分別されます。分かりやすいところでは、正像末和讃のご和讃にあります。そこでは、如来廻向の信心は、願作仏心(自利)・度衆生心(利他)の徳をもち、浄土の大菩提心である、といのうが浄土真宗の立場となります。
ところで、この成就文には、菩提心に続いて、「一向専念無量寿仏」(一心に無量寿仏を念じよ)とあり、菩提心のあとで、念仏が強調されて、修諸功徳が説かれていきます。その諸行と念仏のとらえ方の違いで、この成就文の親鸞聖人と法然聖人の見方が相違が起こってきます。
親鸞聖人は、これは『観無量寿経』の救いで、「諸行往生なり」ととられておられます。
法然聖人は、これを「三輩念仏往生の文」(『選擇集』)で、念仏往生の成就文とみられました。
この相違は、義門の不同による相違によるものです。つまり、
法然聖人は、これを経文の本意からみて、諸行を廃して、念仏を勧めておられる。念仏往生の立場。
親鸞聖人は、これを経文の当相からみて、諸行・念仏並説で、正助・正傍の立場で、これは諸行往生だとされています。
もう少し詳しく法然様の見解を『選擇集』から窺いましたが、ここでは、簡単に触れときます。
*「それぞれに諸行が説かれるのに、なぜ、ただ念仏往生と言えるのか?」
善導大師の『観念法門』を引用し、「一切衆生の根機は不同で、それぞれに応じて、『みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよ』と勧めるためだ」
*「なぜ、諸行を棄ててただ念仏といふ真意はどこにあるのか。」
一には、諸行を廃して念仏に帰せしめんがために、しかも諸行を説く。
念仏が立、諸行は廃。廃立。⇒善導大師から、これを正とする。
二には、念仏を助成せんがために、しかも諸行を説く。
念仏が正業、諸行は助業。正助。
三には、念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を立てんがために、しかも諸行を説く。念仏が正で、諸行は傍。正傍。
「三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり」
ここでは、法然さまは、一の立場、親鸞さまは、三の立場から、ご覧になっているわけです。
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