お宝
名古屋の姉が、父の遺品整理のために動いてくれている。
http://asanoya.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/no454-0f66.html
華光大会で、その一部を展示する計画だ。
ぼくは、このところ、週末ごとの出張法座に加え、会計の年度末を迎え、追悼号の編集と『親指のふし』再版、さらに追悼法要の準備などなど、華光大会まではあれこれ仕事があって、すべておまかせすることにした。
ここ2、3年、まったく使われなくなった父の書斎は、書類や本で足の踏み場もないほど散乱としている。
父の遺品といっても、さまざまある。
服や着物類に、衣などもあるが、書斎には、本や書類、手紙に加えて、書道関係のものが、雑然と山積みされている。
几帳面な父で、手帳などは、昭和20年(つまり華光誌を引き受けた前年で、終戦の年)から残ていたし、大学時代の研究ノートも残している。書の落款類も同じ箱に入れている。でも、逆に、不要な空き箱とか、空きビンなどもたくさん残して、20年前に引っ越して以来、開かずのダンボールもたくさんある。
ただし、世間からみると、見事なぐらい金目のものは何一つなかった。腕時計だって1万円ぐらいの実用的なものだし、ブランドのカバンやネクタイもない。念珠や輪袈裟にしても、「人さまにもらっていただくようなものはないわ」と母は言っている(ぼくは、喜んでくださる方がおられると思っているのだが…)。
また、父の直筆の色紙や短冊の書や絵が多く残って、息子の目からみても、とてもすばらしいものばかりだが、いわゆる世間的な美術品としては、価値はないのだ。
しかし、世間的な価値はなくても、家族にとって、たぶん同人の方にとっても、父の足跡や人柄を感じさせる貴重なお宝ばかりなのだ。
そして、父のほんとうの遺産は、ものだけてはない。もっとも素晴らしいお宝を、ぼくたちに残してくれているのだ。
お盆にも関わらず葬儀には、大勢の方が会葬くださった。みな、父を慕ういわば門弟といっていい人ばかりだ。でも、これは父がこの世で縁を結んだ方の氷山の一角にすぎない。すでにご往生されてお別れした方を含めるなら、この何十倍もの人々が、父を縁として、真実に目覚め、お念仏を喜ぶ身となっておられるのである。その一つ一つのご縁が幾重幾重にも紡がれたおかげがあって、いま、ぼくのところにも、真実の教えが届いてきたのだ。末法の世にあって、南無阿弥陀仏の大宝を喜ぶ身となったのである。こんなすごいお宝が、ほかにあるだらうか。南無阿弥陀仏
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