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日下部民藝館~御手の真中~

Img_0252午前中、アメリカのK夫妻を高山観光にご案内する。
古い町並みを歩いて、日下部民藝館を見学した。ここは、特に欧米の観光客で賑わっていて、英語だけでなく、フランス語やスペイン語が飛び交っていた。

Img_0244豪商の贅沢な江戸期の建物(再建は明治初期)がすばらしい。

Img_0246 特に仏壇は、火災の時も持ち出されたたもので、現在のお金に直すと1億円の私財を投じたものである。浄土真宗ではなく、浄土宗のお仏壇だった。

Img_2174_2また「民芸館」というだけあって、民芸運動に共Img_2171_2感した亭主が集めた陶芸なども並ぶ。伊万里や日田市の小鹿田焼、河井寛次郎などの作品もあったが、柳宗悦の書の内容がよかった。

   「どことて御手の真中なる」

 『御手』というのは、仏の御手でも、神の御手Img_2188_2でも、菩薩の御手でもよい。私が何処に在るも、何処を向くも、居るその個所が、御手の真中であるというのである。『私が』といったが、それは誰であってもよいのである。つまり人間の真の存在は、無上なるものの掌の中に在るというのである。ここで『真中』というのは、左右の中間とか、上下の中程とかいう意味の『中』ではない。そんな中なら、無上とはいえぬ。ある聖者が、『神は至る所に中心を持つが、何処にも周辺を持たぬ』と言ったが、そういう周囲を許さぬ中心が、それ自身の中心なのである。ここに吾々の心の故郷がある。ただその事実を知らぬために、二元の巷に、あたら彷徨っているにすぎぬ。『中』は二元と次元を異にするものである。かかる中を去って解脱はない。だが解脱とは、新しい獲得ではなくして、本来あるがままの境に帰ることである。その故郷の『中』そのものである。仏教に中道が説かれる所以である。 柳 宗悦著『南無阿弥陀仏』よりImg_2192_2

 解説を読んで、「十八願ですね」と、Cさんは言われた。

 ちょうどからくりの動く時間だったので、屋台周辺は、大勢のImg_0258_2人でった返していた。簡単に眺めるだけにして、お茶を飲んだり、高山ラーメンを食べたりして、法座会場に向かった。

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