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10月の聖典講座~本願成就文のこころ~

  『大無量寿経』の講義も、上巻が終わり、今回から下巻に入った。
 『大無量寿経』 には何が説かれているのか。その大綱を述べれば、上巻は「如来浄土の因果」が説かれ、下巻では「衆生往生の因果」が説かれている。それは、親鸞様も、

憬興師のいはく(述文賛)、「如来の広説に二つあり。初めには広く如来浄土の因果、すなはち所行・所成を説きたまへり。後には広く衆生往生の因果、すなはち所摂・所益を顕したまへるなり」と。 (『行巻』)

と、8世紀の新羅の憬興師の文を引用され、示してくださっている。

  では、「衆生往生の因果」とは何か。上巻で説かれたお浄土に、どのようにして衆生(私)が往生するのか(因)と、往生した後、どのような果報(果)が得られるのかが説かれている。そのうち「衆生往生の因」では、衆生(私)がお浄土往生する原因に、「他力の念仏往生」【二二】と、「自力での方便化土への往生である諸行(三輩)往生」【二三~二五】の二種があり、最後に『往覲偈』によって、諸仏による阿弥陀如来の讃嘆と、衆生(私)への浄土往生のお勧めが説かれているのだ【二六~二七】。

 特に、他力の念仏往生は、法蔵菩薩の四十八願のうち、十一、十七、十八願が成就(完成)したことを、釈尊の教示(仏説)として説かれる段で、下巻でもっとも重要なところだ。

 この成就文を、

法蔵菩薩誓ひたまへるを、釈迦如来、五濁のわれらがために説きたまへる文(『一多証文』)

と、親鸞様はいただかれている。

 法蔵菩薩が、八地の菩薩の位で誓われた本願だけでは、凡夫には到底、理解できない。そこで、釈尊の教示(開示解釈)を仰がねばならない(仏説を信じる)のである。本願成就文を通じて窺うことで、初めて本願のこころ、いただき方の極要が明確になってくるのだ。

 しかし、私達、末代の凡夫には、それだけでもまだ不十分である。そこに、親鸞様の仏智の眼によるお示しがあって、初めてその深意が明かになってきた。だから、現代語訳のテキストでも、『大経』当面の意味と、親鸞聖人の発揮の二種の訳(ゴシック体)が掲載されている。

  ここを要約すれば、「本願を信じ、念仏申さば、仏になる」ということになるが、親鸞様のおこころから窺うと、「阿弥陀如来が成就された南無阿弥陀仏の名号。諸仏方が称讃されるその名号のおいわれを聞いて、信心の喜びを恵まれる一念の時に、この世にありながら仏になることが定まり、命終われば、即浄土に往生し、仏とならせさていただく」と、親鸞様を通して、釈尊のお説教、阿弥陀様の本願のお心が、初めて明かになってくるのである。
 
 つまり、釈尊の出世の本懐である弥陀の「本願」を説くことは、釈尊の金口説法であるが、それは弥陀三昧中のご説法であり、弥陀の直説である。それを、成就文として、釈尊の開示解釈があって、初めてその真意が明かになるのだが、それは親鸞様のご出世がなければ、その他力廻向の深意まで明かにならなかったのである。

 さらにである。華光に集う同人は、その要を、伊藤康善先生、増井悟朗先生の懇切丁寧なご指南によって、初めて明かに知ることができたのである。これがないと、私には、深いおこころなど、決して理解は出来なかったのであらう。

 このあたりは、伊藤先生の「真宗安心一夕談」に基づき、悟朗先生が『三帖和讃講讃』P88に簡潔に触れておられるので、ぜひ、ご一読いただきたい。

 十八願の疑問

(1)成仏の因について
 一、三信は各別に発起するのか、一心を開いたものか?
 二、それは、自力で起こすのか、他力の回向によるのか?
 三、三信(信心)と十念(念仏)は、どちらが成仏の因か。二つ共か?

(2)成仏の果について
 四、往生成仏の証(仏果)は、いつ達成するのか? 臨終か、平生か? 臨終ならば、一生不安ではないか?

 第十八願は、「機受の全相」といわれるが、釈尊の成就文は、「機受の極要」といわれるように、上記の疑問を明確にしてくださっているのである。

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