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広島福山での家庭法座

Img_0440_2奈良の翌日は、広島の福山に向かう。
1年1度にある福山での家庭法座である。

福山駅は、福山城に隣接している。
晴天。Img_0443_2

天守閣からの眺めも素晴らしいだろうが、時間がなくて、外観だけをカメラにおさめた。

ここでの法座ももう五年目である。家庭法座のよさがでていて、この場所だからとお参りくださる方がおられるのがうれしい。ご姉妹だったり、お友Img_0448達だったり、お知り合いだったりで、たとえ一年一度でも、ご縁がなければ、けっして聞いていただけないのだがら、お声をかけてくださる熱意が伝わってきた。

ぼくは、いま、追悼号の編集の真っ最中で、そのことで、父の歩みをImg_0450_2まとめて気付いたことを聞いていただいた。

 父は、大阪の商家に10番目の末っ子に生まれ、商業高校に入学するも、17歳で肺結核に発症した。死と向き合う日々の中で、国嶋療法から、伊藤康善先生の『仏敵』に出会って、ついに18歳(昭和19年2月)の冬、後生の一大事を解決する身となったのだ。時は、第二次大戦中の真っ最中。その年の6月に徴兵検査があるが、結核を患ったことで徴兵を免れる。そして、19歳の12月に病から回復し、学校に復学。ところが、商家を営む実家は、20年3月の大阪大空襲で、すべて灰塵と帰してしまう。恩師の勧めもあって、その4月に龍谷大学専門部に入学し、在家から僧侶の道を目指すことになった。そして、8月に終戦。一夜にして、それまでの世間の価値観がすべて崩れる中で、まったく変わらない弥陀の本願のまことに、父は貫かれていたのである。
 このわが身が出会った幸せを、ひとりでも多くの人に分かち合いたい。その一心から、終戦の翌年、21歳の夏に華光誌(5巻3号)を引き継ぎ、その後、母の実家が京都に持っていた家を、球場前の駄菓子屋として営み、大学と、布教と、商売という苦学生活を続けて、そして昭和32年3月、京都十条に華光会館を創建したのである。父が31歳、母が21歳の春のことだった。

 もし父が、結核にならなかったら、国嶋療法から「仏敵」に出会うことは、まずなかっただろう。それに、きっと兵隊になっていただろから、それで命を失っていたかもしれない。大阪空襲に罹災しなければ、商売の道を進んでいたかもしれない。すべて仮にの話だが、それらの糸が幾重にもつながったおかげがあったればこそ、ぼくにも弥陀の本願が届いてきたのである。

 まったく不思議としかいいようがない。 

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