教行寺報恩講
最近、亡くなられた同人のことや、家族を失われたお参り先の方の実例を許に、仏法に遇う不思議と、その喜びをお伝えした。
阿難尊者の「つめの砂」のたとえではないが、人間に生まれることもまことに有り難いことだ。そして、仏法に出会うこともまた有り難いことであるが、その中にあって、善き師に出会い、そして信心を喜び身となることは、難中之難であるこということを、しみじみと味わわさせていただくご縁となった。
そんな中で、いま、私が、お念仏を喜ぶ身となったのは、なぜか。凡夫の力では、ただ、不思議としかいいようがない、仏縁のたまものである。
伝教大師に「一隅を照らす」という言葉がある。これは、本来、どんな人でも、どんな状況でも、精一杯、一隅を照らす働きを示すことを勧めるように解釈されている。
しかし、ぼくには、十方のありとあらゆる世界を照らすお光の主である阿弥陀様こそが、ほんとうに一隅をも照らしてくださる御方ではないかと思う。だからこそ、暗闇の世界の隅っこでうごめていた私も、その光に摂められて、燦々たる光輝く世界の主に迎え入れていただけるのである。
ほんとうに不思議なお働きである。
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