ダリア
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奈良の翌日は、広島の福山に向かう。
1年1度にある福山での家庭法座である。
天守閣からの眺めも素晴らしいだろうが、時間がなくて、外観だけをカメラにおさめた。
ここでの法座ももう五年目である。家庭法座のよさがでていて、この場所だからとお参りくださる方がおられるのがうれしい。ご姉妹だったり、お友達だったり、お知り合いだったりで、たとえ一年一度でも、ご縁がなければ、けっして聞いていただけないのだがら、お声をかけてくださる熱意が伝わってきた。
ぼくは、いま、追悼号の編集の真っ最中で、そのことで、父の歩みをまとめて気付いたことを聞いていただいた。
父は、大阪の商家に10番目の末っ子に生まれ、商業高校に入学するも、17歳で肺結核に発症した。死と向き合う日々の中で、国嶋療法から、伊藤康善先生の『仏敵』に出会って、ついに18歳(昭和19年2月)の冬、後生の一大事を解決する身となったのだ。時は、第二次大戦中の真っ最中。その年の6月に徴兵検査があるが、結核を患ったことで徴兵を免れる。そして、19歳の12月に病から回復し、学校に復学。ところが、商家を営む実家は、20年3月の大阪大空襲で、すべて灰塵と帰してしまう。恩師の勧めもあって、その4月に龍谷大学専門部に入学し、在家から僧侶の道を目指すことになった。そして、8月に終戦。一夜にして、それまでの世間の価値観がすべて崩れる中で、まったく変わらない弥陀の本願のまことに、父は貫かれていたのである。
このわが身が出会った幸せを、ひとりでも多くの人に分かち合いたい。その一心から、終戦の翌年、21歳の夏に華光誌(5巻3号)を引き継ぎ、その後、母の実家が京都に持っていた家を、球場前の駄菓子屋として営み、大学と、布教と、商売という苦学生活を続けて、そして昭和32年3月、京都十条に華光会館を創建したのである。父が31歳、母が21歳の春のことだった。
もし父が、結核にならなかったら、国嶋療法から「仏敵」に出会うことは、まずなかっただろう。それに、きっと兵隊になっていただろから、それで命を失っていたかもしれない。大阪空襲に罹災しなければ、商売の道を進んでいたかもしれない。すべて仮にの話だが、それらの糸が幾重にもつながったおかげがあったればこそ、ぼくにも弥陀の本願が届いてきたのである。
まったく不思議としかいいようがない。
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最近、亡くなられた同人のことや、家族を失われたお参り先の方の実例を許に、仏法に遇う不思議と、その喜びをお伝えした。
阿難尊者の「つめの砂」のたとえではないが、人間に生まれることもまことに有り難いことだ。そして、仏法に出会うこともまた有り難いことであるが、その中にあって、善き師に出会い、そして信心を喜び身となることは、難中之難であるこということを、しみじみと味わわさせていただくご縁となった。
そんな中で、いま、私が、お念仏を喜ぶ身となったのは、なぜか。凡夫の力では、ただ、不思議としかいいようがない、仏縁のたまものである。
伝教大師に「一隅を照らす」という言葉がある。これは、本来、どんな人でも、どんな状況でも、精一杯、一隅を照らす働きを示すことを勧めるように解釈されている。
しかし、ぼくには、十方のありとあらゆる世界を照らすお光の主である阿弥陀様こそが、ほんとうに一隅をも照らしてくださる御方ではないかと思う。だからこそ、暗闇の世界の隅っこでうごめていた私も、その光に摂められて、燦々たる光輝く世界の主に迎え入れていただけるのである。
ほんとうに不思議なお働きである。
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夏の子供大会の感想集である「はちす」の発行に合わせて、11月の法座案内と、華光大会の総会の案内を送付した。
同人の方には、申込み書と総会の出欠(委任状)のハガキを同封しているので、ご利用ください。ただし、今回は、事前に郵便振込での送金が必要なので、ご注意ください。
特に、今年の華光大会は、増井悟朗先生の追悼法座となっていて、すでにお申し込みが増えています。締め切りは、11月14日(土)と1週間前だが、宿泊や偲ぶ会は定員になり次第、先着順で締め切りますので、どうぞ、お早めにお申し込みください。
詳細は案内状か、以下のHPをご覧ください。不明な点は、華光会館までお尋ねください。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2015/detail/11/kekotaikai2015-11.htm
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朝から、福岡のY先生が来館されて、今年度の決算と来年度の予算計画を相談する。ここ数年、厳しい数字続いてきたが、今年は、菩薩様が現れてくださったりで、久しぶりに順調にすすんだ。またいまの雰囲気からすると、来年も堅調ではないかと予想されて、ちょっと一安心。
引き続き、午後から「華光誌輪読法座」だ。
巻頭言「善き師の出遇い」と、十七願の聖教のこころを読む。阿弥陀様の「名」が、諸仏の称讃の声となって届けられる十七願のおこころだが、巻頭言で読んだ、善知識に出会い、そしてその言葉の下に帰入するおこころが、どこかで相通じる味わいがだされて、とても有り難かった。残念ながら、今日は参加者が少なかった。来月からは、父の正信偈の続編なので、ぜひ皆さん、ご参集ください。
法座が終わって、すぐに今夜の発表のレジュメを作製する。今年の担当は終わったが、予定者が都合が悪くなって、急きょ、担当を引き受けることにした。時間がなくて、焦っていたが、案外、夕方の時間だけでまとめることができて、そのまま龍谷大学での真宗カウンセリング研究会の月例会へ。
今夜は、ぼくより先輩のベテランカウンセラーの方ばかりだったので、経験に裏打ちされたお話は刺激になる。
戻ってきたら、最終の新幹線を前に、まだ姉が最後の作業中だった。3日間に渡って、埃の中で、大きな分類を終えてくれていた。ご苦労さまです。ネクタイの一部がが並んでいるのは、名古屋の姪ッ子が気に入った柄で手芸をするという。その中から、父がよく使っていた1本を形見分けでもらって、週末の法座には絞めていくことにした。
最後に、少しだけ遺族が必要なき手続きについて打ち合わせをして、遅い夕食を食べた。
これで長い1日を終わりたいところだか、明日までに渡す原稿があるので、もう一頑張りして追悼号の編集作業にも手をつけた。
うまくこなせるか心配した1日だったけれど、バタバタしなからも、おかげでうまく進んで、充実感を味わった1日。
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名古屋の姉が、父の遺品整理のために動いてくれている。
http://asanoya.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/no454-0f66.html
華光大会で、その一部を展示する計画だ。
ぼくは、このところ、週末ごとの出張法座に加え、会計の年度末を迎え、追悼号の編集と『親指のふし』再版、さらに追悼法要の準備などなど、華光大会まではあれこれ仕事があって、すべておまかせすることにした。
ここ2、3年、まったく使われなくなった父の書斎は、書類や本で足の踏み場もないほど散乱としている。
父の遺品といっても、さまざまある。
服や着物類に、衣などもあるが、書斎には、本や書類、手紙に加えて、書道関係のものが、雑然と山積みされている。
几帳面な父で、手帳などは、昭和20年(つまり華光誌を引き受けた前年で、終戦の年)から残ていたし、大学時代の研究ノートも残している。書の落款類も同じ箱に入れている。でも、逆に、不要な空き箱とか、空きビンなどもたくさん残して、20年前に引っ越して以来、開かずのダンボールもたくさんある。
ただし、世間からみると、見事なぐらい金目のものは何一つなかった。腕時計だって1万円ぐらいの実用的なものだし、ブランドのカバンやネクタイもない。念珠や輪袈裟にしても、「人さまにもらっていただくようなものはないわ」と母は言っている(ぼくは、喜んでくださる方がおられると思っているのだが…)。
また、父の直筆の色紙や短冊の書や絵が多く残って、息子の目からみても、とてもすばらしいものばかりだが、いわゆる世間的な美術品としては、価値はないのだ。
しかし、世間的な価値はなくても、家族にとって、たぶん同人の方にとっても、父の足跡や人柄を感じさせる貴重なお宝ばかりなのだ。
そして、父のほんとうの遺産は、ものだけてはない。もっとも素晴らしいお宝を、ぼくたちに残してくれているのだ。
お盆にも関わらず葬儀には、大勢の方が会葬くださった。みな、父を慕ういわば門弟といっていい人ばかりだ。でも、これは父がこの世で縁を結んだ方の氷山の一角にすぎない。すでにご往生されてお別れした方を含めるなら、この何十倍もの人々が、父を縁として、真実に目覚め、お念仏を喜ぶ身となっておられるのである。その一つ一つのご縁が幾重幾重にも紡がれたおかげがあって、いま、ぼくのところにも、真実の教えが届いてきたのだ。末法の世にあって、南無阿弥陀仏の大宝を喜ぶ身となったのである。こんなすごいお宝が、ほかにあるだらうか。南無阿弥陀仏
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泉佐野のこのお寺でも、父が長年に渡りお世話になってきたところだ。
昔から、春の永代経法要は、和歌山のA先生で、A先生亡き後は、奈良のK先生をお招きになっている。秋の報恩講は、ずっと父で、その父が高齢になってからは、ぼくに声を掛けて続けてくださっている。いつも華光でご縁の先生方のご法話を聞かれるのは、前坊守様が、信一念の廻心体験がある御方で、その法縁から始まっている。ご住職夫妻とも父の思い出をいろいろと分かち合った。
2日目には、アメリカから来日中のK夫妻もお参りされたので、『親指のふし』にも掲載されている彼の求道についても少し触れた。そのご縁もあって、坊守様が、経蔵をあけてくださった。重い扉は三重になっていて、なかなか開かない。
経蔵には、一切経(大蔵経)が納められているが、中央には傳大士(ふだいし)と脇侍(わきじ)の3体が、一切経を護っていた。
何度もお招き頂いるが、これもアメリカからのお客さまのおかげ。
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久しぶりに東海支部法座にお邪魔する。泉佐野の寺院法座が、日・月と変則的で、土曜日に愛知の刈谷市へ。
初めての方が数名、お参りくださっていた。阿弥陀様がなぜ、超世の本願を建立くださったのか、つまり仏願の生起の法話に、心動かされて涙を流しながらご聴聞くださる姿が、尊かった。
人数が多かったので、二つグループの分級座談会を行う。東海支部の追悼法座ということもあり、父の思い出を語ってくださる方がある。その中でも、法話や座談の思い出ではなく、聞法旅行の生活の一こまをとらえた話が有り難かった。
日高支部への聞法旅行。宴会の途中にトイレにいくと、悟朗先生と一緒になりました。先生が先に用を済まされてトイレの出口のところで、膝を曲げて散乱しているスリッパを揃えられているのです。思わず、「私がやります」と、一緒に並べさせて頂きました。皆さんが、少しでも履き易いようにと心を配られる姿に、とても心を打たれました。
という内容。
日頃からそうだった。常に、きっちりした性格で、タオルの掛けかた、履物やスリッパの脱ぎ方や揃え方、戸の開け閉めに至るまで、微細(みさい)に注意をされ、しつけられたぼくには、目に浮かぶ風景でもある。
父が、日頃は人知れず行っていた陰徳でもあろう。
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高山から戻ったら、連れ合いは劇団の仕事で、北海道に旅に出た。
神戸空港から新千歳へ。そこから、列車で函館に着いたという知らせは、深夜になっていた。
彼女の実家は早くも雪になっていたが、函館は、冷たい雨が降っている。
今回は、海流座という劇団の裏方の仕事で、彼女が舞台に立つことはない。昨年、急逝された米倉斉加年氏の追悼公演で、北海道を長期に回っている。米倉さんとは、夫婦役での舞台に立つ予定で、稽古も進んでいたのが、彼の逝去で実現しなかった。ほんとうに残念だったが、ポスターのゲラでもあれば、記念になるのだけれど、、。
せっかく函館にいるのだからと、公演の合間に、同人のTさんを訪ねることになった。お二人ともお酒を嗜む、いや酒豪といっていい二人だ。今夜は、恐ろしいことになっていなければいいのだけれど…。
ぼくも、京都で父の追悼法座の準備で、忙しい。法座の合間を縫って、追悼号の華光誌の編集と、追悼記念品、そして在庫切れになって『親指のふし』の作製といろいろな仕事を抱えて、そこに今生の各種の手続もかなり繁雑で、仕事が思うように進んでいない。
今日も、そんな関係の来客や、うれしい報告者などもあって、最後は、アメリカからK夫妻がおいでになった。今回の来日で、父を訪ねるを楽しみにしてくださっていたが、とうとうそれも叶わずに、今日はお悔やみにおいでくださる。お二人にとって父は特別な存在であったし、父にとっても、K家とのご縁がなければ、長年のアメリカ布教もなかったであろう、大恩あるご一家だ(これは広島の壮年の集いの時に、家系のルーツをお聞きした)。母と募る話もあって遅くなったので、近くのお店で食事をすることになった。
ぼくも、今夜は「函館」である。もっとも、こちらは回転寿司屋だ。
ここで、Kさんご夫妻から有難いお話をいただいた。これから実現に向けて相談や計画が必要だが、ひとつまたご法が拡がる機縁になればと願ってやまない。
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今回の仏青~高山支部合同法座には、遠近各地から大勢の方が集まってくださった。7月の壮年~広島合同支部もそうだが、各支部との合同法座は、地元同人も張り切ってくださるし、遠方からの参加者も多い。今回も、福岡、大分の九州組、高知や広島、関西組と東海各県に、福井や石川の北陸組に、東京からの参加者に加え、遠くアメリカのKさんご夫妻もご参加くださった。
これも仏青の役員(といっても2人)と、高山正副支部長さんたちの頑張りの賜物だ。準備段階から、下見、打ち合わせと、力を合わせてやりとげてくださった。
高山での本部行事は、これで3回目。最初は、平成7年に華光会館が建替中、高山で壮年の集いを開いた。会館の阿弥陀様も、高山に出講中だった。もう20年も前になる。その時、兵庫県日高支部の皆さんが、マイクロバスで大挙参加され、最後には、感極まって高山の皆さんと涙でお別れされたことをよく覚えている。しかし、今回は日高の方は、ひとりもご参加がなかった。これも無常の現実である。 一方で、その時以来、「ありがとうございます。南無阿弥陀仏」と喜べる身となって、高山の方はに御礼申すためにと、大分から20年ぶりに参加された方もある。すべてが法縁である。
法話は、1日に1席ずつの2回。特に企画はなく、同じメンバーで信仰座談会(分級座談会)が持たれた。広島の壮年の集いが、この点では消化不良だったが、今回は、夜座がすべて座談会に当てたられた。長い座談会に、高山の方は心配されていたが、実際は、とても尊い法座となった。
たとえば、ぼくの分級座談。若い人に混じって、98歳を先頭に、80歳を超えた皆さんが、とてもお元気に、法悦を語ってくださった。そこには、理屈を超えて、人を動かす熱情がある。もちろん、ご法に裏付けられた願いだ。だから、グズグズとこの腐った頭で、理屈をばかりこね、一度も頭を下げて聞いたことのない者の、冷たい心も動かされるのである。
最初は、はっきりしたいの欲の心でお念仏されている者に、皆さんが頭を下げ、「どうぞ、聞いてください。お願いです」とたのまれる姿は、そのまま「南無阿弥陀仏」南無の姿そのものだ。それが私ひとりにかけられていると思うと、おもわず、こちらも下らない頭が下ってくる。いや、先手があるからこそ、下げずにはおれないのである。そして、その姿もまた如来様のお力と思うと尊いではないか。
高山の皆さんと悟朗先生とご縁ができて、20年以上が経過した。徐々にここにも高齢化が進んでいる。この法縁をきっかけとして、後に続く者への念仏相続の機縁になる、そんな力を感じさせられる集いとなった。南無阿弥陀仏
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会場は、高山市ではあるが、以前は丹生川村といわれたところで、乗鞍岳などにも続く道沿いにある。会場周辺は、静かな山間の村で、色とりどりの花で飾られていた。特にこの時期、あっちこっちでコスモスが見事に咲いていた。山も、うっすらと紅葉が始まってい
る。
古びた民家を宿にしたお宿が、今回の会場。入り口には囲炉裏もあり、なかなか風情がある。厩(牛)の跡も玄関にある。「昔は、牛や馬も家族だったんです」とは、地元
の同人のお話。いまの犬やネコのようなペットではなくて、立派な働き手としての家畜。
2日目の午後からは、同人宅に分かれての分級座談会。いつもは、F家か、名人H家の2ヶ所だけなの
だが、今回は、ほかに2軒の同人が、会場提供くださった。ぼくも初めて、支部長のH家
にお邪魔した。まず、立派な仏壇に驚かされた。あまりにも立派だったので、予定にはなかったが勤行をさせてもらった。仏壇の前に座ると、すーっと吸い込まれるような雰囲気までした。奥様とは初めてお目
にかかれたのも、うれしかった。
ほんとうは、もう少しゆっくりしたいところだが、最後の全体会のために、近くのお寺に移動した。高山同人の中でも、国府町の同人の方の檀那寺。なんでも、今日は、Fさんのお父さんのご命日にあたるそうで、お寺の過去帳も、そこが開いていた。なんとも不思議気持ちがした。
けっして大きくはないが、なかなか上品な山寺だ。しかも、山門には、同人が施主となり、H名人が彫刻したら龍がお出迎えくださるのであるから、ここも立派なご旧跡中だ。
地元同人が「この本堂に人が溢れるのは、お寺が始まって以来ですわ」と喜んでくださっている。しかも人数だけではない。本堂いっぱいに、皆さんの称えるお念仏が、朗々と響き渡って、仏法讃嘆がなされた。
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午前中、アメリカのK夫妻を高山観光にご案内する。
古い町並みを歩いて、日下部民藝館を見学した。ここは、特に欧米の観光客で賑わっていて、英語だけでなく、フランス語やスペイン語が飛び交っていた。
特に仏壇は、火災の時も持ち出されたたもので、現在のお金に直すと1億円の私財を投じたものである。浄土真宗ではなく、浄土宗のお仏壇だった。
また「民芸館」というだけあって、民芸運動に共
感した亭主が集めた陶芸なども並ぶ。伊万里や日田市の小鹿田焼、河井寛次郎などの作品もあったが、柳宗悦の書の内容がよかった。
「どことて御手の真中なる」
『御手』というのは、仏の御手でも、神の御手
でも、菩薩の御手でもよい。私が何処に在るも、何処を向くも、居るその個所が、御手の真中であるというのである。『私が』といったが、それは誰であってもよいのである。つまり人間の真の存在は、無上なるものの掌の中に在るというのである。ここで『真中』というのは、左右の中間とか、上下の中程とかいう意味の『中』ではない。そんな中なら、無上とはいえぬ。ある聖者が、『神は至る所に中心を持つが、何処にも周辺を持たぬ』と言ったが、そういう周囲を許さぬ中心が、それ自身の中心なのである。ここに吾々の心の故郷がある。ただその事実を知らぬために、二元の巷に、あたら彷徨っているにすぎぬ。『中』は二元と次元を異にするものである。かかる中を去って解脱はない。だが解脱とは、新しい獲得ではなくして、本来あるがままの境に帰ることである。その故郷の『中』そのものである。仏教に中道が説かれる所以である。 柳 宗悦著『南無阿弥陀仏』より
ちょうどからくりの動く時間だったので、屋台周辺は、大勢の人でごった返していた。簡単に眺めるだけにして、お茶を飲んだり、高山ラーメンを食べたりして、法座会場に向かった。
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週末の仏青~高山支部合同法座のために、一足早く高山に入った。
ちょうど高山は、 秋の八幡祭(高山祭)で賑わっている。
夜の宵祭りに、アメリカから来日中のKご夫妻をご案内することにした。
とはいっても、このお祭りは初めてだ。駐車場を使わせてもらったOさんの奥様に、「何時ごろ、どこでみるのが一番いいですか」と尋ねてみた。
ところが、「エー?」と困った様子。「小学5年の時に見たきりなんです。子供を連れていっても、夜店が楽しみなのでね。テレビでみるのが、いちばんよく見えますよ」と、苦笑しながらのお返事。案外、地元の方は、そんなもんなんでしょうね。春と秋に2度、それぞれの神社のお祭りで、このあたりは春の祭りの氏子町になるとのこと。あと、夜は冷えるので
厚着を勧めて下さったが、たしかに夜は寒くなった。また、夜店の通りは、多くの人達が賑わ
っていた。
高山別院で待ち合わせをし、そのまま桜山八幡宮を目指して古い町並みを歩いていると、辻のところに人盛りが出来て、神楽台(かぐらたい)と獅子舞の一行がやってくるところだった。提灯の明かりを灯した11台の屋台が次々とやってきて、目の前で方向転換するところも観ることができた。かぎ字になった場所で、2度屋台が方向転換する場所にあたる鑑賞ポインドだと、後から教えてもらった。
さすがに日本三大美祭に数えられるだけあって
、艶やかで美しい。お囃子の樂の音色も、上品で古い町並みの情緒にもびったりあっている。京都の祇園祭の鉾に比べると、屋台は小ぶりではあるが、飛騨の匠といわれるだけあって彫刻や細工ひとつひとつが精巧だ。もちろん、名人のHさんの彫り物が飾られている宝珠台も見せていただけた。
なんでも、いま工事中のJR高山駅が完成すると、そこに屋台が飾られるそうで、その一面の彫り物は、この名人の作品になるのだそうで、これからの高山法座の楽しみがひとつ増えた。
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7月末、京都の同人を見舞った。かなりお悪いという話が耳に入ってきて、娘さんの近くの病院に転院される前に、お顔を見たかった。少し前にお手紙をいたいだが(今号の華光誌に掲載)、信仰の上で少し気にかかるところもあった。しかし、苦しい病床にありながら、後生について、これまでにないぐらい晴々したお顔になって、涙を流しながらお念仏する姿に、ぼくのひっかかりも氷解して、笑顔でお別れをすることができた。
その様子は、ここにも触れている。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-026d.html
転院後、落ち付かれたら、またお見舞いに行こうと思いながら、父が死んで、バタバタとした日々を過ごしていた。
結局、あの時、両手握ってお別れしたのが、今生での最期となった。
先日の日曜礼拝、娘さんがおいでになって、そのお母様が8月17日に亡くなったというご報告があったのだ。父の死から、10日後のことで、もう四十九日もすんだいうのである。
ここでも、「またね」はなかった。無常の厳しさが突き刺さる。
「分からない。分からない、胸が承知しない」と、何度、涙されたことであろうか。最後まで悪戦苦闘し、どんなに厳しく関わられても、病床を身をおして、ここ数年、もっとも熱心に御参りされていたおひとりだと思う。加えて、一昨年の華光大会を縁として、娘さんの相続のために、年忌法事を兼ねた家庭法座をもってくださったのも、永代経法名軸の記載やご喜捨にしても、寿命の尽きることが分かっていたかのように、精一杯をしてくださっていた。
最近は、父のお悔やみを受ける立場であったが、今日は、高槻の娘さんのお家まで、お悔やみに窺った。もし、家庭法座を兼ねた法事をもったれなかったならば、娘さんとご縁を結ぶことはなかった。お孫さんも、喜んで日曜礼拝に参加してくださっているのだ。
今日も、娘さんやお孫さんが、一緒に聖典を開き勤行し、お念仏をしてくださる。家庭的には次々と死別の悲しみが連続する一生、ご自分も、病苦に悩まされながら、70代の前半というまだこれからという時に、静かにご往生されたが、人には言えない辛いことも多かったであろう。しかし、最期に、後に残る大切な人達の胸に、彼女の宝だったお念仏の火を灯されたのである。まだ、その火は、小さく、微かだ。しかし確かに、娘さんやお孫さんが手を合わせ、口からは「南無阿弥陀仏」と称えるご縁が、ここにはあるのだ。必ずや、しっかりとご法のご相続もしてくださることであろう。南無阿弥陀仏
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信心正因にはいって、今日は、なぜ「信心」(三信)が正因で、「称名」(乃至十念)は正因にならないのかを、十八願や本願成就文から窺う段。ちょうど、先日の聖典講座で、詳しく説明した箇所とも重複するので、聖典参加者には復習になっただろう。
結論からいれば、「乃至十念」は、
(1)「乃至」の二文字をかぶせていること、
さらに(2)機受の極要である成就文には、その行が省かれ、聞による信のみが説かれているということから、
「乃至十念」として示される称名念仏は往因にはならず、「信心」(三信)のみが正因となるのである。
しかも、この十八願の信心は、他の十九願や二十願のように他の行の助けはまったく必要がない。つまり、一切の邪因や余因(雑行や雑修、称名など)を簡(えら)ぶもので、この信心ひとつ以外には何も必要がないというのである。そして、この信心ひとつでによって、往生成仏の最高の証果を得ることが、明かになる。これが、親鸞さまが明かされた浄土真宗の特色のひとつである「唯信独達」の肝要である。
次回も、この続きから.
11月4日(水)夜7時30分~夜10時まで
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もう1本のチベット映画は、『ルンタ』。『蟻の兵隊』 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_f960.htmlや『先祖になる』などの傑作ドキュメンターを監督している池谷薫の作品。
チベットで続く中国に抗議する焼身自殺者を見つめ、ブログに発信し続けている日本人、中原一博を追いかけることで、チベット人の精神に迫る映画だ。
聞き慣れない『ルンタ』とは、チベット語で、風の馬というの意味がある。少し前に『風の馬』という映画も観たが、そちらは、チベットの現状をドラマ化したものだった。チベットの峠だけなく、インド仏跡を訪れると風の道には必ず、大量の五色のタルチョがはためいていた。そのタルチョに描かれている図柄のひとつがこの「風の馬」というのである。
国家の暴力によって、自由を奪われる人達がいる。平気でいのちが奪われ、民族のアイディティも犯されていく。言語も、風習も、移動も、そして彼らにとっていちばん大切な信仰さえもだ。平和的なデモも、圧倒的な兵器で弾圧される。現実をありのまま発言しただけで、数多くの僧侶が殺戮され、逮捕され拷問され、中には拉致されたまま闇に消えたものも多数いるのだ。
非暴力の抗議の中から、抗議のための焼身自殺者が次々と生まれてくる。
しかし、チベット問題に関心のある人からも、批判の声がある。平和で、安全な国いるものには、その行いを理解するのは難しい。「いのちを粗末にするな」と言うだけなら、簡単なことだ。だか、彼らの仏教、大乗仏教に根ざして生きざまを目にすると、そこに深い葛藤を超えた、安らかな決意が感じられもする。生きとし生きるものの幸せを願い、慈悲心を起し、利他のために生きている、まさに菩薩として歩んできた人達でもある。
とはいっても、正直、その行為には違和感を感じずにはおれない。
男がいる。女がいる。若者が多いが、年輩の方もいる。この映画は、そんな焼身自殺者のひとりひとりの生きざまをおいかけ、彼れが残したメッセージを丁寧に掘り起こしている日本人がいる。悲しみや憤りと、そして葛藤を抱えながら、その現実をしっかり見つめ、そして発信し続けていく水先案内人と共に、彼らが焼身自殺した場所に立ち、直前までの行動を追いかけ、また残された遺書や言葉を掘り起こしながら、そのひとつひとつを「事件」として処理するのではなく、同じ尊い「いのち」が失われている現実を目の当たりにしていくしかない。
業縁としかいいようがない深い深い悲しみが、そこに立ち上がってくる。
ああ 悲しいなー。南無阿弥陀仏
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最近、京都シネマで、チベットに関連する映画を2本観た。
『ダライ・ラマ14世』と『ルンタ』だ。
ぼくが、ダライラマ14世の講演を聞いたのは、大学1回生のころだったが、それほど広くない龍大の大宮学舎の講堂だが、通路にも聴衆か溢れていた。1980年のころだから、まだノーベル平和賞の受賞前、日中関係が今とは異なる状況下で、回りは神経質な対応で政治的な発言はなかった。質疑に入ると、一般質問という形で、中共(中国共産党)との関係が問われた。その他の質問もあらかじめ仕込まれていたかのような内容だった。が、最後に、華光会にいつも顔を出していた開教師のRさんが、「猊下は、どうしてダライラマになられたのですか」という、素朴な質問をした。Rさんが質問したことにも驚いたが、その素朴だと思った質問の答えが、いちばん面白かった。有名な映画『リトル・ブッダ』さながらの輪廻転生の物語である。もちろん、彼自身は、この映画の中でも、「私はブッタや神でもなければ、(中国がいうところの分断主義の)悪魔でもない。普通の人間だ」と、ユーモアを交えて語るシーンがある。しかし、実際は、13世の転生者であり、観音菩薩の化身だと仰がれているのである。
でも、日本人が密着して造られた映画は、「人間」としてのダライラマの素顔に迫るものでだ。日本人のさまざまな質問に、率直に、ユーモアたっぷりに、しかし時に、ある種の問いに対しては、「それは分からない。あなたがお考えなさい」という感じで、とてもつれなく答えられるものがある。その対応が、ぼくには面白かった。そうだ、そんことは、人に尋ねることじゃないてく、日本人であるぼくたちが自分で考えなくちゃいけないことだし、今、自分の出来ることは何かを考えたら、迷わず実行することが大切なんだというテーマばかりだったからだ。日本人は、もっともっと仏教を学びなさい。ただ『般若心経』を唱えるだけじゃだめなんだ。そして、智慧を磨きなさいというのである。
中でも感心したのは、今、浄土真宗の大教団が、差別問題を助長した歴史から、「羹に懲りて膾を吹く」の愚に陥って口を濁す「業」の問題を、的確に指摘されている点だった。ある難病になった若い女性が涙ぐみながら、「なぜ、人生はこんなに不公平なのか」といった意味の質問に、「因果の道理で、あなたのカルマ(業)だ」と、きっぱり言い切る。また、障がいのある子ども抱えた若いお母さんにも、『入菩薩行論』を引用し、「これも受けるべきカルマだ」という。しかしである。けっして、突き放す冷たさはない。彼は付け加えた。「だからあなたがなすべきことをなしなさい。もしそれ以上できないのなら、必要以上に歎き悲しむことはないんだよ」と、彼女の苦しみに寄り添うように、温かいまなざし向けるのである。
しかし、彼はそれだけのものを背負ってきたのである。チベットへの中国の迫害である。長年に渡り、多くのチベット人が、迫害され、虐待され、または国を追われているのである。それをもまた、共業として受けているのである。チベットの中にだけいては見えなかったことが、外に出たからこそ見えたのであり、だからこそ、古い迷信や因襲を捨てて、民主的で、科学的な新生チベットの再生を願い、着実に実行に移されているのである。
日本のホテルのロビーで、チベット留学生に話しかけるシーンは感動的たった。国家はなくても、チベット民族として誇りと共に、自分たちのルーツは仏教にある。いかにブッダの教え(仏教)を大切にし、そして、慈悲心もって、利他行をなしていくのかを、諄々とやさしい言葉で説かれていく。仏教に基づく理念や精神による国作りは、中国にけっして負けない。でも、チベット料理店の数は、中華料理には負けているがとユーモアも忘れずに…。
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『大無量寿経』の講義も、上巻が終わり、今回から下巻に入った。
『大無量寿経』 には何が説かれているのか。その大綱を述べれば、上巻は「如来浄土の因果」が説かれ、下巻では「衆生往生の因果」が説かれている。それは、親鸞様も、
憬興師のいはく(述文賛)、「如来の広説に二つあり。初めには広く如来浄土の因果、すなはち所行・所成を説きたまへり。後には広く衆生往生の因果、すなはち所摂・所益を顕したまへるなり」と。 (『行巻』)
と、8世紀の新羅の憬興師の文を引用され、示してくださっている。
では、「衆生往生の因果」とは何か。上巻で説かれたお浄土に、どのようにして衆生(私)が往生するのか(因)と、往生した後、どのような果報(果)が得られるのかが説かれている。そのうち「衆生往生の因」では、衆生(私)がお浄土往生する原因に、「他力の念仏往生」【二二】と、「自力での方便化土への往生である諸行(三輩)往生」【二三~二五】の二種があり、最後に『往覲偈』によって、諸仏による阿弥陀如来の讃嘆と、衆生(私)への浄土往生のお勧めが説かれているのだ【二六~二七】。
特に、他力の念仏往生は、法蔵菩薩の四十八願のうち、十一、十七、十八願が成就(完成)したことを、釈尊の教示(仏説)として説かれる段で、下巻でもっとも重要なところだ。
この成就文を、
法蔵菩薩誓ひたまへるを、釈迦如来、五濁のわれらがために説きたまへる文(『一多証文』)
と、親鸞様はいただかれている。
法蔵菩薩が、八地の菩薩の位で誓われた本願だけでは、凡夫には到底、理解できない。そこで、釈尊の教示(開示解釈)を仰がねばならない(仏説を信じる)のである。本願成就文を通じて窺うことで、初めて本願のこころ、いただき方の極要が明確になってくるのだ。
しかし、私達、末代の凡夫には、それだけでもまだ不十分である。そこに、親鸞様の仏智の眼によるお示しがあって、初めてその深意が明かになってきた。だから、現代語訳のテキストでも、『大経』当面の意味と、親鸞聖人の発揮の二種の訳(ゴシック体)が掲載されている。
ここを要約すれば、「本願を信じ、念仏申さば、仏になる」ということになるが、親鸞様のおこころから窺うと、「阿弥陀如来が成就された南無阿弥陀仏の名号。諸仏方が称讃されるその名号のおいわれを聞いて、信心の喜びを恵まれる一念の時に、この世にありながら仏になることが定まり、命終われば、即浄土に往生し、仏とならせさていただく」と、親鸞様を通して、釈尊のお説教、阿弥陀様の本願のお心が、初めて明かになってくるのである。
つまり、釈尊の出世の本懐である弥陀の「本願」を説くことは、釈尊の金口説法であるが、それは弥陀三昧中のご説法であり、弥陀の直説である。それを、成就文として、釈尊の開示解釈があって、初めてその真意が明かになるのだが、それは親鸞様のご出世がなければ、その他力廻向の深意まで明かにならなかったのである。
さらにである。華光に集う同人は、その要を、伊藤康善先生、増井悟朗先生の懇切丁寧なご指南によって、初めて明かに知ることができたのである。これがないと、私には、深いおこころなど、決して理解は出来なかったのであらう。
このあたりは、伊藤先生の「真宗安心一夕談」に基づき、悟朗先生が『三帖和讃講讃』P88に簡潔に触れておられるので、ぜひ、ご一読いただきたい。
十八願の疑問
(1)成仏の因について
一、三信は各別に発起するのか、一心を開いたものか?
二、それは、自力で起こすのか、他力の回向によるのか?
三、三信(信心)と十念(念仏)は、どちらが成仏の因か。二つ共か?
(2)成仏の果について
四、往生成仏の証(仏果)は、いつ達成するのか? 臨終か、平生か? 臨終ならば、一生不安ではないか?
第十八願は、「機受の全相」といわれるが、釈尊の成就文は、「機受の極要」といわれるように、上記の疑問を明確にしてくださっているのである。
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8月に予定していた年忌法要で、大阪は島本町へ。
父の葬儀と重なってしまって、10月に延期となった。汗ばむほどの陽気だが、空は、秋色で気持ちがいい。
ご主人の3回忌。古い同人のお宅で、奥様は、会館建立以前からの和歌山の増美屋(父の兄の呉服屋)からのご縁の方だ。息子さんは、ぼくの同級生。小学校の時に参加した仏の子供大会を覚えているという。なぜか。海で溺れた土左衛門に強い衝撃を受けたからだ。
勤行と短いご法話の後、亡き夫と、悟朗先生を偲んで、いろいろとお話がでる。
最後に、華光会館ができる以前の古い写真を用意してくださっていた。昭和26年の興正寺での華光大会、昭和27年の新和歌浦での全体写真なのだ。伊藤先生も、悟朗先生に、A先生も、当然お若い。そして、まだ独身時代の父のブロマイドのような写真と、丸々していた母の写真(当然10代)も…。とても懐かしい。いや、懐かしさとは正確じゃなないなー。ぼくが生まれる10年以上の前の話で、どの世界を彷徨っていたことやら。
今、編集中の追悼号にも、写真を掲載してみいた。
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先日、会期末を前に、龍谷ミュージアムで「玄奘三蔵と薬師寺」を観る。実は、この名は仮題であって、正式名称は、「玄奘~迷いつづけた人生の旅路」という冠されていた。ただ、このサブタイトルには少し異論がある。若い時にはいろいろと迷いのあった玄奘さんだろうが、その生涯は求法の道を歩み続けられ、インドからの帰国後は、翻訳の一大事業に、一生涯、全身全霊を傾けられたからだ。「求法」と
「伝道」、つまり、生涯を「法」を中心にした旅路で゛その方向には一点の迷いもなかったのではなかろうか。
それはともかく、玄奘さんの生涯に多角的に光をあてた展示で、(1)「どんな人?」、(2)「その伝記」、(3)「仏教に出会う」、(4)天竺に旅する、(5)唐に戻り訳経に挑む、(6)死してなお…の六章仕立て。さまざまな面の玄奘三蔵さんが映し出されていた。地球一周が4万キロだが、彼の旅は、最低でも3万5千キロというのだから、ほぼ地球1周近い旅というのも凄まじい。また翻訳事業の功績も凄まじく、中国で翻訳(漢訳)された経典のうち、1/4は彼の仕事だというのである(75部-1335巻・鳩摩羅什さんは、74部-384部)。それには、膨大な資金が必要で、中国の皇帝のみならず、西域や印度の王などからも、惜しみなく援助を引き出すだけの政治力を兼ね備えていたというのである。
ぼくの心に残った2、3のことを記すと、
ますは、チームでなされていた経典翻訳の「訳場」のイメージ図を眺めると、翻訳がどのようになされたのかが想像しやすくなったこと。
旅の守護者は、弥勒菩薩であり、観音菩薩であるが、もうひとり「深沙大将」という神で、後悟浄のモデルになっるのだが、さまざまな絵画や単立でもおまつりされるようになっているが、時にに荒々しく、時にユニークな像は微笑ましかった
最後に、玄奘三蔵さんの尊敬するは、「菩提流支」三蔵さんで、鳩摩羅什さんじゃないんだなー。
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11月21日~23日の華光大会で、父の追悼法要を開かせていただきますが、そのご案内を同封した、華光誌を本日、発送しました。
内容は編集作業が終わった時に、ここでも振れています。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-c4b7.html
第一、お手許に届けば、ご覧いただけるのですから、ぜひお楽しみに。
華光誌には、
1)華光大会、追悼法要のご案内(申込み方法付き)
2)年賀広告(11月25日〆切)
3)1月カンポジア・アンコールワート旅行の案内書
(28年1月20日~25日)
4)郵便振替用紙
なども同封されていますので、ご確認ください。
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