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『ダライ・ラマ14世』

最近、京都シネマで、チベットに関連する映画を2本観た。

『ダライ・ラマ14世』と『ルンタ』だ。

ぼくが、ダライラマ14世の講演を聞いたのは、大学1回生のころだったが、それほど広くない龍大の大宮学舎の講堂だが、通路にも聴衆か溢れていた。1980年のころだから、まだノーベル平和賞の受賞前、日中関係が今とは異なる状況下で、回りは神経質な対応で政治的な発言はなかった。質疑に入ると、一般質問という形で、中共(中国共産党)との関係が問われた。その他の質問もあらかじめ仕込まれていたかのような内容だった。が、最後に、華光会にいつも顔を出していた開教師のRさんが、「猊下は、どうしてダライラマになられたのですか」という、素朴な質問をした。Rさんが質問したことにも驚いたが、その素朴だと思った質問の答えが、いちばん面白かった。有名な映画『リトル・ブッダ』さながらの輪廻転生の物語である。もちろん、彼自身は、この映画の中でも、「私はブッタや神でもなければ、(中国がいうところの分断主義の)悪魔でもない。普通の人間だ」と、ユーモアを交えて語るシーンがある。しかし、実際は、13世の転生者であり、観音菩薩の化身だと仰がれているのである。

 でも、日本人が密着して造られた映画は、「人間」としてのダライラマの素顔に迫るものでだ。日本人のさまざまな質問に、率直に、ユーモアたっぷりに、しかし時に、ある種の問いに対しては、「それは分からない。あなたがお考えなさい」という感じで、とてもつれなく答えられるものがある。その対応が、ぼくには面白かった。そうだ、そんことは、人に尋ねることじゃないてく、日本人であるぼくたちが自分で考えなくちゃいけないことだし、今、自分の出来ることは何かを考えたら、迷わず実行することが大切なんだというテーマばかりだったからだ。日本人は、もっともっと仏教を学びなさい。ただ『般若心経』を唱えるだけじゃだめなんだ。そして、智慧を磨きなさいというのである。

 中でも感心したのは、今、浄土真宗の大教団が、差別問題を助長した歴史から、「羹に懲りて膾を吹く」の愚に陥って口を濁す「業」の問題を、的確に指摘されている点だった。ある難病になった若い女性が涙ぐみながら、「なぜ、人生はこんなに不公平なのか」といった意味の質問に、「因果の道理で、あなたのカルマ(業)だ」と、きっぱり言い切る。また、障がいのある子ども抱えた若いお母さんにも、『入菩薩行論』を引用し、「これも受けるべきカルマだ」という。しかしである。けっして、突き放す冷たさはない。彼は付け加えた。「だからあなたがなすべきことをなしなさい。もしそれ以上できないのなら、必要以上に歎き悲しむことはないんだよ」と、彼女の苦しみに寄り添うように、温かいまなざし向けるのである。

 しかし、彼はそれだけのものを背負ってきたのである。チベットへの中国の迫害である。長年に渡り、多くのチベット人が、迫害され、虐待され、または国を追われているのである。それをもまた、共業として受けているのである。チベットの中にだけいては見えなかったことが、外に出たからこそ見えたのであり、だからこそ、古い迷信や因襲を捨てて、民主的で、科学的な新生チベットの再生を願い、着実に実行に移されているのである。

 日本のホテルのロビーで、チベット留学生に話しかけるシーンは感動的たった。国家はなくても、チベット民族として誇りと共に、自分たちのルーツは仏教にある。いかにブッダの教え(仏教)を大切にし、そして、慈悲心もって、利他行をなしていくのかを、諄々とやさしい言葉で説かれていく。仏教に基づく理念や精神による国作りは、中国にけっして負けない。でも、チベット料理店の数は、中華料理には負けているがとユーモアも忘れずに…。

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