広島支部法座~準備は万全~
広島支部法座でも、悟朗先生の追悼法座を行う。
お正信偈をお勤めし、お焼香もしていただく。
法話も、臨終の有り様や葬儀などの様子についてお話しする。
座談会も、先生を偲んで、その思い出などを分かち合った。
さて、その一節を詳しくは述べられないが、聞法の要点になるべき箇所がでてきて、思わず、僕自身が篤く語ったしまった。
それは、ある方が、そろそろお救いに出会う準備ができてきたのかなーと発言されたら、
別の方が、準備が出来てきたなら頂かれたらどうか、というお勧めをされたのを聞いたからだ。
確かに、お育てをいただくことで、お念佛ができると身になったり、ご聴聞も内容分かるようになったりもする。
その意味では、徐々に、獲信の準備が重なり、いよいよその時がくるかかのように聞いてしまう。
しかしである。それは、この世の中の延長のお救いになってしまうのだ。
どれだけお育てをいただこうと、私は、どこまでも地獄一定の救われようがない身なのだ。悪は悪のまま、愚は愚のままなのだ。
つまりは、こちらの側に阿弥陀様のお救いを受け入れる準備など、百座、千座聞いてもできないのである。
聞き始めたときから、どれだけ聴聞を重ねたとしても、この自力が死なない限り、わたしは何一つも変わらないでのある。
ほんとうに何一つ変わらないのである。
ここを聞き間違っている限り、ダメなものはダメなのだ。
実は、準備は阿弥陀様のお仕事なのだ。けっして、私の方ができることではない。
救われる手がかりが一切ない私を、必ず救って見せるという阿弥陀様は、十劫の昔から、そのための準備を万端にしてくださった。
それが、五劫の御思案なのである。
私の側には、なんの準備もいらないのだ。。いや、それすらできないのである。そこをお聞かせに預かるのだ。
その阿弥陀様が、「はやく来い、いますぐ来い、そのまま来い」と、十劫の昔から叫びつづけている。
私に心の準備が出来ようが、出来まいが、「汝一心正念にして、直ちに来れ」の勅命に、泥凡夫のままで飛び込んでいくかしない。それは格好悪くてもいい。泥臭くてもいい。腹見せて、阿呆のままでいってもいい。そのお呼び聲一つに、丸々おまかせするのだ。
すると、この自力が廃り、始めて他力が満入してくださるところなのである。
その意味で、こんなにもハッキリするお救いはない。
悟朗先生こそ、この真宗の自他力廃立の要を、身をかけて、私に伝えてくださった善知識だったのではないか。
思わず、ぼくも力が入ってしまった。
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